おかしい。おかしい、おかしい……。
何がそこまであの女を駆り立てるのか。

「特命係の亀山ぁ!」

呼びかけると、用を足していた亀は首だけで振り向いて怒鳴った。

「いちいち余計なもんつけんな!」
「おい。お前らまた古いヤマに首突っ込んでんだってな。あ?何企んでやがんだ」

亀の隣に進み、ジッパーを下ろす。亀は必要以上に飛び上がって上擦った悲鳴をあげた。

「な、何でお前が知ってんだよ!」
「ばーか。特命の動きなんぞ筒抜けなんだよ」
「な、なんだよ。元はといえばお前らの仕事だろーが!お前らが放り出したヤマを調べなおしてやってんだよ!悪いか」
「あー、そうだな。お前ら暇だもんな。こっちはな、いつまでも昔のヤマばっか引き摺っちゃいられねぇんだよ。毎日のように事件、事件事件……お前らと違ってな、俺らは暇じゃねぇんだ!」
「だったらそのお忙しい伊丹くんは自分の仕事だけやってりゃいいだろうが!そっちこそいちいち俺らのことに口出すな!」
「てめーがそれを言うのか?あ?」
「なんだよ、やんのか」

ジッパーを上げ、ズボンを整えながら亀山と睨み合う。だが伊丹は程なくして深々と嘆息し、軽く首を振りつつ視線を上げた。

「……大体だな。何で十三年前の、東大生殺しなんだ。何があるってんだ。何でどいつもこいつも、その件に必死になる?お宮入りになった事件なんて他にも山ほどある……それを、何で東大生殺しなんだ」

訝しげに眉を顰め、亀山が訊いてくる。

「お前それ、さんのこと言ってんのか」

伊丹は愕然と眼を見開き、呆けたように眼前の相手を見つめた。こいつはそれを、知っているのか?
どれだけの大事件を抱えてもそれを持ち前の頭脳と足で迅速に解決へと導き、またその足ですぐさま彼女が捜査に走る東大生殺人事件との繋がりを。
誰にも頼らず、ただひたすらに独りで走り続けるあの女の思い。

何とはなしに立ち寄った駒場で、彼女が聞きこみに回っているのを一度だけ見かけたことがある。
いつも現場で見せる色のない瞳ではなく    激しい炎が燃え上がるような、そんな眼光。
確かに強い思い入れがあるのだろうと、否応なく悟った。
そもそもどうして俺は、意味もなく駒場などに向かったのだろう?

「気になるなら本人に訊けよ。俺はただ、右京さんについていってるだけだ」
「ばっ……馬鹿野郎!誰があんな可愛げのない女のことなんか    
「おーっと、触んなよ」

腕を伸ばしてジャケットを掴もうとすると、亀山は大袈裟に後退してあっさりとそれをかわした。

「伊丹くん、手は洗った方がいいと思うな」
「てめ……亀!待てコラ!」

再び手を上げかけるも、既に亀は悠然とトイレから出ていた。追いかけるよりも先に。
大きく溜め息をつき、伊丹は渋々と蛇口を捻った。
資料室、捜査一課、鑑識課、駒場、本郷……そのすべてが、忌まわしい悪夢の記憶に満ちている。それでもそれらを繋ぎ合わせて、駆けずり回って、死に急いでも必ず見つけ出してみせる。
ごめんね。ごめん。
十三年も放り出しておいて、ごめんなさい。
だけど、時間が必要だったの。
こうして向き合うためには、それを癒してくれるだけの時間が必要だった。
時効。そんなものは関係ない。どのみち警察は彼を棄てた。それならば、法の定める期限に何の意味がある?
何年かかっても、私が必ず見つけ出す。
彼の好きな花を聞いておけば良かった。何を持ってくれば喜んでくれたのか。

「何か……見えかけては、いるの。もう少し、何か分かれば。見えてくる気がする。もう少し、いま一歩」

花屋では白い花をいくつか見繕ってもらった。墓石の前にそれを置き、火をつけた線香を供えてから。
足音が聞こえたわけではない。だが、ふと左へ首を回すと。

女がひとり、立っていた。右手に小さな花束を持ち、呆けたようにこちらを見つめている。
その姿には、見覚えがあった。

「……?」

先に口を開いたのは、女だった。彼女はこちらの答えを待たずに、激しい口調で捲くし立ててくる。

「何しに来たの。今更、あんたが彼に何の用なの?」
「……今日は、彼の命日でしょう」
「ええ、そうよ。その通りね。でも今更どうしたっていうの。逃げ出したんでしょう……あんたはあの後、東京から逃げたんでしょう。私はずっと、ずっとよ。毎年彼と向き合ってきた    彼を放り出して逃げたあんたに、ここに来る資格なんてない。違う?」

言って女はこちらまで大股で歩み寄り、彼女の供えた花束を乱暴に持ち上げた。

「帰って。二度と来ないで」

突き返されたそれをしばらく見据え    そして女の顔を見返す。

「あなたにそんなこと、言われる筋合いはないんだけど」
「な……」
「彼のご両親の言葉なら大人しく聞くけど、あなたに言われる謂われはないわね。そっちこそ、一体何のつもりなの?」

激昂し、女が片方の花束を地面に叩き付ける。はそれを遮るようにして、あくまで落ち着いた声音で言いやった。

「ちょうど良かったわ。あなたにも会いに行こうと思ってたの」
「は?よくものうのうとそんなことが言えるわね。あんたを見てると吐き気がするのよ!」
「勝手に吐いてればいいでしょう。それより、当時のことを聞きたいの。覚えていることだけでいいから」
「……は?」

ますます顔を顰めて唇を歪めてみせる女に、懐から取り出した手帳を開く。

「警視庁捜査一課のです。さんの殺害事件を調べています。当時の関係者の方々に改めてお話を伺いたいと」

女は呆気にとられてぽかんと口を開けたが    やがて唇をきつく引き結ぶと、開いた手のひらを思い切りこちらの頬に叩き付けてきた。
一瞬焼け付くように痛んだ左の頬を押さえる間もなく、女は続けて掴みかかってくる。

「あんた何様!?一体何のつもりなわけ?逃げるようにいなくなったかと思えばひょっこり戻ってきて……刑事ですって?今更の事件を調べてるって!?笑わせるんじゃないわよ!それとも何    それで贖罪のつもり?今更あんたがそんなことやったって……何がどうなるっていうのよ!もう十年も、警察は何の手掛かりも掴めなかったんじゃない!あんたに何ができるっていうの!」

引き剥がそうと、力をこめて後退する。するとこちらの胸倉を掴んだ女の手がすぐさま追いかけてきて突き出され、その拍子には地面に勢いよく尻餅をついた。ほとんど同時に、再び女の右手が打ち上げられる。
続いて降ってきたのは、相手の平手ではなく聞き知った男の叫び声。

「ちょ    あんた!やめろ、やめろって!」

唐突に現れたのは、必死の形相で女を押さえようとする同僚の刑事だった。女    遠藤の手首を掴み上げ、何とかこちらから引き離す。
はただ呆然と、その様を見つめているしかなかった。

「いっ……ちょっと、一体何なのよ!」

掴まれた手首を振り回そうとしながらも、徒労に終わっている女が男に向かって唾を散らす。男がようやくそれを解放してやると、いつの間にやら落としていた花束を荒っぽく取り上げ、女はこちらと男とを交互に睨み付けた。
肩を竦め、男が口を開く。

「事情は知りませんが、それ以上目の前でやられるとあなたを傷害罪の現行犯で逮捕しなければいけませんからね」

その言葉に、女は一瞬眼を見開いたがを一瞥して納得したようだった。鼻を鳴らし、嘲るように口を歪めてみせる。

「お友達が来てくれて、命拾いしたわね」

そして地面に転がった彼女の花束の傍らに、自分のそれをも投げ付けた。

「私は本当に、ずっとあんたを殺したくて仕方なかったんだから。犯人が見つからないのなら、それはあんた自身の罪よ」

足早に去っていく女の後ろ姿を見つめ    男は不可解な顔をしていたが、彼女には女の言いたいことがすべて分かった。そしてそれを、否定できないのも事実だ。
ゆっくりと腰を上げ、地面に落ちた二つの花束を拾い上げる。それを再び墓前に丁寧に揃えながら、彼女は傍らに立ち尽くしたままの男に向けてつぶやいた。

「……どうして、あなたがここに」
「え    いや、その……たまたま近くを通りかかっただけですよ、たまたま」
「ずっとつけてたんでしょう」

言いながら、尻餅をついたスーツの砂を落とす。
気付いてはいた。誰かに尾行されている。
一時は、それが遠藤かと思っていたのだが。

「上の命令ですか。私が命じられてもいないのに古いヤマを調べ直しているから」

伊丹は答えず、こちらに背を向けてポケットから煙草を取り出す。

「故人の前で失礼ですよ」
「……失敬」

軽い調子で返し、彼は銜えた煙草を大人しく懐に仕舞った。
そちらに背を向け、厳しい口調で告げる。

「皆さんにご迷惑をおかけするつもりはありません。私がひとりで、片付けます」
「だから    それが迷惑だって言ってるんですよ」

歩き出そうとした彼女を、男の苛立った声が追いかけてくる。足を止め、軽く下唇を噛む。

「警察は組織です。それは第一の鉄則のはずだ    あなたのやってることは、特命係とまったく変わらないじゃないですか」

特命係。杉下右京と、その相棒亀山薫だけで構成されている警視庁の陸の孤島。

「そうかもしれませんね。でも、それじゃあ駄目なんです。一課でなければ調べられないことは少なくない    私にはどうしても、やらなければならないことがあるんです」
「ひとりじゃ何もできないでしょう!」

声を荒げ、伊丹が激しく言ってくる。

「捜査本部がどれだけ捜査を続けても、ホシはあげられなかったんでしょう。それを十年以上経った今、たったひとりで調べなおして何が分かるっていうんですか!時効まではまだ時間がある    何か掴んだ情報があるんなら、一課の人間はあなただけじゃないんだ!」

得体の知れない感情が。目まぐるしく駆け巡る。胸を切なく締め付けるもの、噴きあがる憤り。彼に対して怒鳴っても、仕方がない。何かを恨むとすれば、当時の捜査一課の刑事たち、鑑識班、警察という組織そのもの。そして    彼を殺めた、犯人。
他の誰でもない、自分自身。

「私が自分で、終わらせなければならないんです」

この手で。この足で。

「私がひとりで、調べます」

他の誰にも、触れさせない。
私が    この手で。

「心配しないで下さい」

かじかんだ両手を、コートのポケットに入れて歩き出す。

「あなたたちに迷惑はかけません。上にも、そうお伝え下さい」

吐いた息が、白く濁る。
彼は、追ってはこなかった。
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(06.10.21)