「ああ
くんのことですか」
老人はそう言って、感慨深げに窓の外に視線を移した。つられて伊丹もそちらを向くが、取り立てて目を奪われる何かも見つけられずに再び男の方を見る。西洋思想の研究をしているというその教授は外した眼鏡を手近な布で拭いてから、またそれをかけてプラスチック越しにこちらを向いた。
「ええ、覚えていますよ。何しろとても優秀な学生でしたからね。私も期待していたんです。将来は研究者になりたいとよく言っていました」
「それが……なぜ、大阪なんかに?話では彼女は、大阪の大学を卒業したとか」
すると教授はお愛想程度に浮かべていた微笑すら消して、物憂げにまた窓の外を見た。
「ご存知ですよね?十年ほど前、このキャンパスで男子学生が一人、殺害されたという事件」
「ええ……さん、当時二十四歳。東京大学大学院在籍、深夜駒場キャンパス内にて何者かに絞殺……」
「くんは、彼と同じサークルの後輩でしてね。とても、親しくしていたそうです」
同じサークルの、……。それを聞いて自然と頭の中に浮かび上がってきた通りのことを、教授は口にした。
「彼女は彼の事件に非常にショックを受けましてね……無論私を含め大学関係者はほとんど皆そうでしたが
彼女の場合は、目も当てられないほどでした。このままここへ在籍し続けることは、彼女にとってはあまりにつらすぎたのでしょう。程なくしてくんは関西の大学へ転学を希望しましてね。そのまま、」
「……そうでしたか」
重苦しい気持ちでそうつぶやいて、伊丹はこっそりと唇を噛んだ。彼女は愛する人間を殺した犯人を探し出すために、東京へと帰ってきたのだ。
たとえ捜査一課の刑事とはいえ、たったひとりでできることなどたかが知れているだろうに!
「刑事さん」
ひっそりと、呼び掛けられて。はっと目を開き、自分の席に着いたままこちらを見上げる老教授に視線を返す。
彼は嘆かわしそうに頭を振って、聞いた。
「……先日、下の守衛さんから聞きました。、という女刑事さんが
くんの事件を調べ直していると」
なぜか後ろめたいものを感じて、伊丹はさり気なく窓の外を見た。ここからは脇のテニスコートが見下ろせ、複数の学生たちがいかにも青春らしい汗を流して動き回っているのが見える。
「それはくんなのでしょうか。彼女は、そのために刑事になり……今でも彼のことを忘れられずに、ずっと」
そうした義理があったわけではないが。
伊丹は再び教授に向き直り、はっきりとした口調で告げた。
「我々は刑事として、どんな被害者のことも忘れてしまうべきではありません。警部補は、そうした刑事の一人として過去の事件を見つめ直しているのだと思います」
そして、口を噤んで苦しそうに目を細める老人に、深い一礼を示した。
「
お前、姿勢が悪いよ」
出逢いは、突然にやって来た。
バイトを終え、ふらりと立ち寄った真夜中の部室でひとり本を読んでいると、不意に背後から声がして彼女は飛び上がった。主人公の気持ちがあまりにもよく分かるものだから、前のめりになって知らず知らずのうちに流していた涙を大慌てで拭ってから、振り向く。
狭い入り口に立っていたのは、これまでに見たことのない、若い
とはいっても、自分よりは年上の
すらりとした長身の男だった。彼は茶色に染めた髪を無造作に掻きながら、きょろきょろと部屋の中を見回している。
「あれ、なんだ。高橋のやつ、いないの?」
「え?あ……私が来たときは、誰もいませんでした」
高橋。誰だろう。分かんない。彼はふーんとつまらなさそうに唸りながらこちらに近付いてきた。慣れた手付きで散らかったテーブルの上から古いノートを取り上げ、ぱらぱらと捲る。
「お前、新入生?」
彼はこちらをちらりとも見なかったので、しばらくは自分が話しかけられていることにも気付かなかった。慌てて顔を上げ、名乗る。
「す、すみません!私、一年のです!あの……上級生の、方ですか?」
「さあ。いくつに見える?」
えぇっ?そういう振られ方、一番困る!
頭を抱えてうんうん唸っていると、ようやく部誌から視線を上げた彼は高らかに声をあげて笑った。
「んなマジメに悩むなよ。テキトーに答えときゃいーの、そういうもんは」
「えぇ?でも……あー、それじゃあハタチくらいですか?」
「そうか、それじゃあそういうことにしとこう。それよりお前、腹減ってない?」
そういうことにしとこう、って。だから、そういう切り返しって一番困るんだよね……結局この人、先輩なんだよね?
「お腹って……だって今、十一時ですよ?さっきコーヒーも飲みましたし、特には……」
「あー、そう。俺、飯まだなんだよね。どーせヒマだろ、付き合えよ」
えっ!?いきなり、何それ!少し、どころかだいぶカッコいい上級生に誘われて嬉し恥ずかし
というよりも、空腹ではないと言う初対面の新入生を、有無を言わさず自分の非常識な時間の食事に付き合わせようとするその強引さに困惑した。そりゃあこんな時間にこんなところに居座っていた私にも責任はあるかもしれないけど、さ!
戸惑う彼女に、振り向いたその上級生は気楽に笑ってみせた。
「心配すんなって。俺、年下には興味ねーから」
「なっ……そんなこと、言ってないじゃないですか!」
「そーか?顔に書いてあったぞ」
真っ赤になって口を噤む彼女を見て、彼はけらけらと笑う。
「ちょっと歩くけど、手ごろなファミレスがあるんだって。せっかくだから、奢ってやるよ」
「ええと……だから私お腹空いてないんですってば……」
「デザートもあるぞ。お前、もうちょっと太った方がいいんじゃねー?そんなひょろひょろじゃ新歓で死ぬぞ」
次から次へとわけの分からないことを口にする先輩についていけず、ただただきょとんと目を見開く。彼は意外そうに聞いてきた。
「あれ?誰かから聞いてねーの?」
「え?な……何をですか」
「あー、そっか。確かに言わねーでいた方が楽しみが増すか。そうだな、そうしよう」
「もうっ!何なんですか、そこまで言って秘密なんてひどすぎます!」
思わず大きな声を出すと、彼はますます愉快そうに腹を縒って笑い出した。まるで小さな子供でもあやすように、ぽんぽんと軽く彼女の頭を叩いて、
「そう怒るなよ。うちの新歓は毎年すげーパワーで新入生を迎えることにしてるから体力ねーとやられるぞってこと。ま、どんな体力バカみてーなやつでも平気な顔で帰らせたことは、少なくともこの三年じゃ一度だってなかったけどな」
お前も女だからって油断してると痛い目に遭うぞ。そう言ってにやにや笑う上級生の姿を見て彼女は震え上がった。なに、そんな話、聞いてない!
こちらの反応がよほど面白いのか、彼は引っ切り無しに笑う。
「そんなに心配すんなって。要は優しい先輩たちが最上級の愛をもってお前らをお迎えするってこった。楽しみにしとけよ」
「先輩……言ってることちが……」
「違わねーって。それが俺らの愛情表現。お前らもすぐに慣れるよ」
満面に笑みを浮かべ、外へと歩き出そうとした彼はふと振り向いて言った。
「ま、入学して半月で、こんな時間に部室に居座ってるなんて図太いお前なら大丈夫だろ。でも気を付けろよ。お子様が趣味の変質者だっているんだ、こんな遅くにひとりでキャンパスうろついてるといつか襲われんぞ」
なっ……図太いとかお子様だとか!好き勝手なことばっかり!
「ご忠告、どうも」
不貞腐れた顔でつぶやくと、彼はまた笑いながらこちらの頭を叩いた。
「ま、この俺が一緒なら心配いらねーよ。どうだ、心強いだろ」
「……そうですね」
「なんだお前、いちいち全部真に受けやがって!面白いやつだな、よくからかわれるだろ?」
「………」
「図星だ!すげー、お前超分かりやすい!」
……もう、やだこの人。一緒にいたら、疲れる。声には出さずに独りごちて、彼女は彼と共に部室を後にした。
暗がりの並木道をふたりで歩いていると、数歩先を行くその上級生が、ふと足を止めて振り向く。
「そーだ。名前、なんていったっけ?」
「……です。文三の、一年生です」
「文三」
へー、と声をあげる彼を、街灯の下じとりと見上げ、彼女もまた聞いた。
「先輩は?」
この先永遠に忘れられなくなる、その名を。
「あ、俺は電情の
あー、まあ……M1の、だよ」