「勝手な真似をするな。まずお叱りを受けるのは他でもない、私なんだ」
「……申し訳ありません」
「それともなにか?ホシをあげれば君の身勝手な行動が正当化されるとでも思っているのかね」
「……いいえ」
「返事だけなら誰にでもできる。態度で示してもらいたいな」
「はい。以後、気を付けます」

軽く頭を下げ、部屋を後にする。返事ならば誰にでもできる。まさにその通りだ。だが協調性を重視してみすみす犯人を取り逃がすなど、そんな馬鹿な話があるか。
課長に呼び出されるのは二度目だった。彼女の行動について刑事部長が何かと煩く言ってくるらしい。なんでも、杉下右京の二代目だとかなんだとか。捜査一課に身を置きつつ、自分の調べたいことを調べ抜くには上司は適当にあしらっておくに限る。彼女はその足で真っ直ぐに資料室へと向かった。

陽の当たらない廊下の奥    扉を潜ると、そこには予想だにしない先客がいた。棚に向かったまま手元のファイルを開き、こちらの入室に気付かなかったわけでもあるまいに素知らぬ振りをしている。
小さく息をつき、彼女が資料室の中へと踏み込むと、そこでようやく男は顔を上げて微笑んでみせた。

「おはようございます、さん」
「……おはようございます」

目線は合わせなかった。棚の番号を見ながら、彼    右京の方へと歩み寄っていく。彼も閉じたファイルを右手に持ち、こちらに向かってゆっくりと歩いてきた。
すれ違うその瞬間、足を止めた右京の傍らを通り過ぎる。

「お探しの資料はこちらですか」
「………」

息を呑み、彼女は反射的に振り向いた。彼はこちらに背を向けたままだが、その手に掴んだファイルを軽く掲げている。
その表紙に書かれた文字を見ると、背筋にぞくりとするものが走るのを感じた。
振り返った右京の鋭い眼光が、眼鏡の奥からこちらを静かに見透かす。

「このために、戻ってこられたのでしょう」

彼はそのまま腕を伸ばし、手中のファイルを丁寧に差し出してきた。

「僕にできることならば、何でもお手伝いさせて下さい」

その言葉は、否応なしに昔のことを思い出させた。遠い日々の記憶。そこに情け容赦なく、この男が割り込んでくる。
何とか素直にそれを受け取り、俯いたまま彼女は皮肉めいた微笑を浮かべた。

「……あの日も確か、あなたは同じことを仰いましたね」

彼は答えなかったが、その眼がじっとこちらを見つめているのは気配で分かる。そもそも杉下右京は、そういった人間だ。

「私が戻ってきたから、だから思い出されたんですか」

顔を上げるとやはり、彼の眼差しと目が合った。何を言うでもなく、ただこちらの言葉に耳を傾けている。

「これは私の問題です。私とあなたはもう、赤の他人なんです。放っておいて下さい」

古びたファイルを胸元で掴み、彼の脇を通り抜けて扉へと向かう。追いかけてきたのは、彼の穏やかな声。

「お姉様が心配しています」

ふと、足を止め    彼女は掴んだファイルを握り締めた。卑怯だ。この男は、十年が過ぎた今でも変わらず卑劣な手を使う。
従姉妹の話題を出せば、彼女を足止めできることを知っている。

「せっかくこちらに戻ってきたのですから、一度顔を見せてあげて下さい。彼女はあなたのことを、本当に心配しています」

ずるい。あなたはいつだってずるい。
もう会わないと決めた。ひとりで生きていくのだと決めた。
組織など信用できない。それはただ、利用するためだけにある。家族。愛すべき誰か。そんなものは行く末の妨げになるだけだ。
ひとりで生きていくと決めた。
再び歩き出した彼女を、やはり杉下右京は呼び止めた。コツコツと硬い靴底を鳴らしながら、近付いてくる。

「お姉様に会わない理由などないでしょう」

空いた手でドアノブに触れたまま、硬直する。彼はすべてを知っている。

「それとも、会えない理由でもあるのですか」

気付いているくせに。あなたは、当時の私の姿を知っているのだから。
あなたはあの日、誓ったのに。
振り払うようにして踏み出した彼女の腕を、右京は後ろから強く震える手で掴んだ。振動は、直接心臓に伝播して弾け散るようだ。彼女は息を呑む。

「僕にできることならば、何でもお手伝いします。ですがさん、約束して下さい。お姉様のためにも、僕とあの時の約束を交わして下さい。あなたは、もうあの頃のあなたとは違う。一人の警察官なのですよ」

その声までもが、悲痛なほどに打ち震えている。皮膚を伝って彼の感情のすべてが流れ込んでくるかのような。ファイルを掴む手のひらが強張る。
きつく歯噛みし、彼女は相手の拘束を強く撥ねつけた。

「もう……放っておいて下さい!あなたには関係のない話でしょう。私には私のやり方がある。あなたと同じようにね」

資料室を飛び出した彼女を右京が身体で追いかけてくることはなかった。だが彼の激しい言葉と手のひらの感触だけは、いつまでも纏わりついて離れない。
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(06.10.16)