なんだか、胸のどこかにしこりが残るような、そんな、収まりの悪い事件。それは、刑事部長に大目玉を食らったせいでも、毎度おなじみ捜査一課の連中に手柄を横取りされたせいでも、なく。

「なんつーか……やりきれない、ですね」
「ええ。ですがそれでも    我々は、刑事ですから」

ぽつりと呟いた右京の背中に、うっすらと影が差す。それがやがて店先の明かりに照らされて、ゆっくりとその入り口をひらいた。

「あ、いらっしゃい!」

すっかり馴染みのカウンターの奥からふたりを出迎えたのは、決して馴染みの女将ではなかった。
「えぇっ!たまきさんの、妹?」
「正確にはお姉様のお子さんつまり姪御さんということですね」
「あ、へぇ……なるほど」

カウンターの向こうでせっせとたまきの手伝いをしている、その若い女性をまじまじと見つめる。彼女はこちらの視線に気付くと、にこりと人の良い顔で微笑み、こちらの空いたグラスに冷えたビールを注ぎ足してくれた。

「お姉ちゃんには昔からずっと頼んでたんです。東京に行ったらお店の手伝いさせてくれって」
「そう、この子ったら聞かないんですよ。小さなお店だから人手には困ってないんだっていっても」
「お姉ちゃんは困ってなくても、わたしが困ってるの!ねえ、お願いだから雇ってよー」
「言ったでしょう。もっとちゃんとしたいいところで働いた方がいいわよ。たとえば塾の講師とか」
「あー!またお母さんと同じこと言った!学部のときにちょっとやってみたんだけど、わたしやっぱり子どもは嫌いなんだってば。最近は可愛くないのばっかり!」
「あらやだ。それが数年前のあなたの姿なのよ?」
「そんなことないってば!わたしあんなに可愛げなくなかったもん」

いー、と歯を剥くその姿は、まだまだ子どもの面影を残して恨めしげにたまきの横顔を見据える。一方のたまきはくすくす笑いながら右京の前に湯気の立つ熱燗を出した。
聞くところによると、彼女    たまきの姪であるは地方の国立大学に入学したが、どうしてもやりたいことがあるというので卒業後初めて実家を離れ、東京の大学院に進学したらしい。当然右京とも過去に面識があり、彼女は店内に右京が足を踏み入れるや否やカウンターから飛び出して大げさな抱擁を交わした。さらにいえば右京の姪である杉下花とも交流があり、時折手紙のやり取りをしているのだという。

「別にバイトなんて無理してしなくってもいいんじゃないの?それともなんか困ってることでも?」

軽い気持ちで尋ねると、は少し怒った顔でこちらを向いた。

「そりゃ困ってますよ。だってわたし、プーですよ。いつまでも親の脛かじってるわけにいかないし」
「そう思ってるんだったら、もっとちゃんとしたところで働きなさい。ここじゃお給料だってそんなに払ってあげられないんだから」
「えー。ふーん、お姉ちゃんのケチ」
「少しは大人になったかと思ったのですが、まだまだ子どもですねぇ」

杯を口に運びながらさり気なく右京が口を挟むと、はすぐさまそれに反応した。

「期待を裏切ってしまってそれはそれは申し訳ありませんね。右京さんだってちっとも変わらないじゃないですか」
「僕が最後にあなたにお会いしたのは、確かあなたがまだ高校生のときでしたね。それから成人した今、当時とあまり変わらないというのはいかがなものかと思いますが」
「ひっど……変わってます、変わりましたよわたしはずっと大人になりました。右京さんの目がだいぶ曇っちゃってるんじゃありませんか。知らないでしょうわたしがどんな怒涛のキャンパスライフを送ったかどうせ右京さんは何もご存知ないんですよ違いますかわたしは十分オトナです」
「果たしてそうでしょうかねぇ。僕は注意力に関してはいささかあなたよりも自信がありますよ」
「まーまーまー!ふたりともそのへんにしときましょうよ。ね、ほら、せっかくの久しぶりの再会なんですから。あ、ちゃんもうオトナなんだよね?だったらちゃんもこっちきて、一緒に飲もう、ね?」

はしばらく頬を膨らませてあらぬ方向を向いていたが、やがておとなしくこちら側にきて右京と薫の真ん中の椅子に腰を下ろした。

「……どうぞ」
「……どうも」

難しい顔をしたまま、目線を落として。が右京の杯に、熱燗を注ぐ。右京も軽く瞼を伏せてそれを受け取り、ゆっくりと口に運んだ。けれどもその顔つきからは、言い様のない幸福感が漂ってくるのを感じる。

(まったく……素直じゃないんだから)

きっとお互いに、な。
たまきがの前に新しく出した杯の上で、右京が徳利を傾けるのを見ながら、薫はたまきとこっそり目線を合わせて、小さく笑った。
それから月日は流れ、次に彼女と出会ったのは三ヵ月後の週末だった。いつものように退庁後、右京と花の里に立ち寄ると、カウンター席に突っ伏したは空っぽのグラスを掴んだまま、すやすやと眠りこけていた。

「あれ……ちゃん、どうかしちゃったんですか?」

そっと声を落として尋ねると、たまきはいつものようにグラスを出しながら困った顔で微笑んだ。

「なんだか大学でいやなことがあったみたい。あんまり強い子じゃないのに、ちょっと飲みすぎちゃったわね」
「あなたが飲ませたのですか?」

どこか非難めいたものをにじませて、右京が問いかける。たまきはとんでもないと首を振った。

「わたしはね、そろそろやめておきなさいって言ったのよ。でもこの子ったらわたしがちょっと裏に行ってる間にここにあったの全部ひとりで飲んじゃって」
「ひとりでって……」

たまきが示した先には、空っぽのビール瓶が、二本。確かに、以前一度だけ会ったとき、杯に日本酒二杯でべろんべろんになっていた女の子が飲む量にしては、桁違いだ。
右京は嘆息混じりにそちらへと近づき、耳まで真っ赤にして寝息を立てている彼女の肩に手を置いた。

さん、こんなところで寝ていると風邪をひきますよ。さん」
「まーまー右京さん、こんなに気持ち良さそうに寝てんのに起こしちゃ可哀相ですよ。たまにはこれくらい飲んで、いやなことなんかパーっと忘れちまわないと。でしょ?」
「……そうですか」
「心配要りませんって、帰りは俺が責任もって送りますから」

まだ何か言いたげな顔をしつつ、諦めて右京は彼女から手を離した。だが自分のスーツをしっかり彼女の背にかぶせ、何も言わずにカウンターの定位置に座った。
申し訳なさそうに頭を下げながら、たまきが口を開く。

「ごめんなさいね、亀山さん」
「いーえ。どうせ車ですから、ドライブがてら家までお送りしますよ」
「ほんとにごめんなさい。もうひとりで帰れなくなるまで飲ませたりしないから」
「当然です」

ぴしゃりと言ってのけた右京の表情がどことなくおかしかったので、声を潜めて笑うと、右京は少しだけ不機嫌そうに「なんですか」と聞いた。
こんなにも、好きだったのに。
甘い蜜月は、たったの、一ヶ月。
燃え尽きた。ぼろぼろになるまで。そうするより他に、愛するすべを知らなかった。
涙が涸れるまで泣いて    すべてを落としきったあと。それまで、何も手につかないような。そんな恋愛しか、知らなかった。
ずっと憧れてきた、東京。けれど……故郷を離れ、たどり着いたそこは    思い描いた理想郷とは、かけ離れていて。

「目、覚めた?」

不意に、声がした。はっとして目を開くと、ぼんやりと浮かんでくるのは暗闇。だがよくよく目を凝らしてみれば、そこは車の助手席だった。目の前に、部屋を借りているマンションの明かりが見える。

「なんかうなされてたみたいだったから、起こした方がいいかなって思ってたとこだったんだよ」

ゆっくりと、首を回すと……隣の、運転席に。男がひとり、座っていた。反射的に、悲鳴をあげそうになる。

「っぎやあああだれかあぁぁぁ!!」
「ちょっ!なにやってんの!俺だよ、亀山!忘れたの?」

咄嗟に腕を掴まれてこれぞ人攫いだと身震いしたが、すぐに男の言葉を思い出してはたと動きを止めた。かめやま、カメヤマ……亀山?

「あっ!右京さんの!」
「そう、思い出してくれた?よかったよかった、痴漢とでも勘違いされたらたまんないからね」
「ご、ごめんなさい……でも、あの、その、なんで……」
「覚えてない?ちゃん、花の里でずいぶん飲んだそうじゃない。すっかり寝入っちゃって、ひとりじゃとても帰れそうになかったから、たまきさんにマンション聞いて俺が送ってきたってわけ」
「えっ!ご、ごめんなさい……あーもう恥ずかしい……わざわざ、すみません」
「いーのいーの。どっちみち同じ方向だったしね。それより、平気?部屋までひとりで帰れる?」
「はい!それはもちろ……」

言いかけて。ふらりと、残っていたらしいアルコールが、脳を駆け巡る。思わず背もたれに倒れ込んで、一、二度小さく深呼吸した。

「……すいません、もうちょっと休ませてもらっても……いいですか?」
「そりゃちっとも構わないけど    大丈夫?コーヒーでよければ、あるけど」
「……いただいても、いいですか?」
「いいよ、ほら」

どこからどう見ても人の良さそうな顔を向けて、亀山がジャケットのポケットから缶コーヒーを取り出して渡してくれた。ジョージアの、微糖。あ……これ、わたし、大好きなやつ。

「それじゃ、お金……」
「え?いーのいーのそれくらい、取っとけって」
「でも……」
「いーから。コーヒーくらいでちゃんから金取ったなんて知ったら、右京さんきっと怒るよ」
「怒る?でもお金のことはきっちりしないと人間関係にひびが入るって、母に教えられてきましたから」
「そりゃーそうかもしれないけど、たまには奢られとく方がうまくいくことだってあるの。よし分かった、それじゃあ今度はちゃんがなんかちょっとしたものでいいから俺に奢ってよ。それならいいでしょ?」

こんなにも強く言われて、それでも払うなんて言ったらきっと嫌われるんだろうな……。分かりましたといって、缶のふたを開けた。あっという間にコーヒーの渋い香りが、ふわりと鼻腔に漂ってくる。この匂いを嗅ぐと、不思議とどんなときでも落ち着けた。
    と。ふと、パチン、と音がして、亀山の方を見やる。彼はくわえた煙草の先にライターで火をつけていたが、こちらの視線に気付くとすぐにぎこちない声を出した。

「あ……ひょっとして、煙草、きらい?」
「いえ、そういうわけじゃ」

慌てて否定したが、通じなかったらしい。ごめん、気付かなくて、と言いながら、亀山はあっという間に車についた灰皿の底でその火を消した。

「ずいぶん荒れてたみたいだけど、なんかあったの?」

何気ない口振りで、亀山が聞いてくる。その声からにじみ出る優しさと、車内に少しだけ残った煙草の香りとが相俟って、彼女の心の線に触れた。
煙草は……あのひとも、すきだったから。

突然泣き出したを見て、ぎょっと目を丸くした亀山はあからさまに狼狽した。

「ど、どしたの?ごめん……やなこと思い出させちゃったよね、ごめん」
「……フラれちゃいました」
「えっ?」
「……研究室の先輩と付き合ってたんですけど、他に好きな人ができたとかで……フラれちゃったんです……」

ああ、もう。なにいってるんだろう。ろくに知らない人からこんなこと言われたって、亀山さん困るだけじゃない。

「それは、そいつが悪い」

しばしの沈黙を挟んだあと、亀山があまりにもきっぱりとそう言い切ったので、むしろこちらが呆気にとられて、は涙をこぼしたまま、ぼんやりとそちらを向いた。
にこりと笑って、亀山がそのあとを続ける。

「こんなに可愛い子 振るなんて、そいつに見る目がないだけだよ。大丈夫、人生長いんだからさ、これからそいつなんかよりずっといい男が現れるって。だからぜーんぜん、心配なんか要らないよ」

そう告げる彼の瞳は    あまりにも、優しかった。
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