「お姉ちゃん    亀山さんって、どんな人?」
「どんな?」

煮付けを作るその手をはたと止めて、たまきが視線を上へと向けた。

「そうねぇ……一言でいえば、熱い人、かな」
「あつい、ひと……」
「そう。気付かない?右京さん、最近どことなく変わったなって」

たまきのその言葉に、はカウンターで広げていた発表用のテキストから顔を上げた。

「やっぱり?そうなんだよね、なんていうか、その……そう、丸くなった!まさかそれって、亀山さんの、」
    『杉下右京は人材の墓場。下に就いた者はことごとく警視庁を去る』、なんて言われながら、もう六年近くもあの人の下で働いてるのよ?あの人、亀山さんと一緒に仕事するようになってから、ずいぶん変わったわ」
「……お姉ちゃんと、暮らしてたときより?」

恐る恐る、尋ねてみたが。たまきはくすりと微笑むばかりで、何も答えなかった。こちらも手元のテキストに視線を戻して、何気ない風を装い、問いかける。

「亀山さんって、恋人いるのかな」
「え?」

不意を衝かれてたまきが顔を上げたちょうどそのとき、入り口の引き戸が開いて後ろから軽快な声がした。

「こんばんは、って、あれ?」
「あら、いらっしゃい」

たまきの視線を追って振り向くと、スーツ姿のいかにも『やり手』らしい女の人が、軽く頭を下げながら中に入ってくるところだった。

「あ、たまきさん、こちらが噂の姪っ子さんですね?」
「あら、分かった?」
「そりゃー分かりますよ。だってほら、このへんの線が、たまきさんにそっくり」
「あら、そんなこと言われたの初めて」

その女性が自分の頬のラインを示しながら言うと、たまきはおかしそうにくすくすと笑った。
こちらの手前で足を止め、少しだけあらたまった様子で姿勢を正したその女性が、慇懃に頭を下げる。

「どうも初めまして、こちらでお姉さんと仲良くさせてもらってます、亀山美和子です」
ある日の午後、知らない番号から、一本の電話。だが仕事柄そうしたことは茶飯事だったので、取り立てて不審に思うこともなく、その呼び出しに応じた。

「はい、亀山ですけど」
「あ……あの、亀山さん?」

若い、女の声。だがどうもピンとくるものを感じなかったので、いつものように、名前を聞いた。

「もしもし、どなたですか?」
「あ、ごめんなさい……です。です」

思ってもみなかった名前を聞かされて、思わず椅子の上からずり落ちそうになった。

ちゃん?」

いつものように意味もなく高い位置から紅茶を入れていた右京が、こちらの言葉にぴくりと反応し、見開いたその大きな目で振り向いた。どことなく花に似ているところがあるせいだろう、元女房の姪というだけの存在にしては、右京は異常なほどの過保護ぶりを見せた。もちろん、素直でない分、決して口ではそれを示さないのだが。

「お姉ちゃんから、この番号、聞いて」
「あ、うん、そんなことはいいんだけど……なにかあったの?」
「いえ、大したことじゃないんですけど」

一瞬たりともこちらから視線を逸らさない右京の目が、あまりにも怖すぎる。

「今、お仕事中ですか?」
「うんまあ……あ、でも全然大したことやってないから、気にしなくていいよ。どうかした?」
「あの……亀山さん、覚えてますか?前、マンションまで送ってくれたとき……コーヒー、奢ってくれて」
「えっ?あ、あー」

正直、忘れていた。どれほど昔のことだったか、それすらも思い出せないほどに。

「あのときの、お礼がしたくて。今夜、空いてませんか?」
「なんだ、そんなこと……そんなこと、ほんとに気にしなくていいから。俺なんかすっかり忘れてたくらいだし」

彼女はしばらく黙したあと、それでも、といって強く言ってきた。

「それじゃわたしの中で収まりがつかないんです。だからちょっとでいいから……会って、もらえませんか」

彼女があまりに真面目な声でそう言うので、断るのはかえって申し訳ない気がしてきた。奢るといっても缶コーヒー一本、それを今なお覚えている律儀さと、決して譲らないその頑固さは、どこかの誰かに瓜二つと言わざるを得ない。たとえ、直接的な血の繋がりはなくとも。

「分かった。それじゃあ何時にどこにしようか」
「ありがとうございます!亀山さんはどこだったら都合いいですか?」
「俺は車があるからちゃんが行きやすいところでいいよ。なんなら大学まで迎えにいってもいいし」
「いえ!そんなこと……ええと、それじゃあ    

待ち合わせの、時間と場所を決めて。じゃーね、と電話を切る。いつの間にか自分の席に着いていた右京はどうということのない口振りですぐさま聞いてきた。

さんがなにか」
「へへ。気になります?」
「いいえ。ただ君があまりに締まりのない顔をしているものですから、何事かと」
「あ、俺そんなに締まりない顔してます?」
「ええ。一度あちらの鏡でも覗いてみたらいかがですか」
「結構です。へへ、気になります?気になって仕方ないって顔してますよ」
「気にならないと言いませんでしたか?」
「もう、素直になればいいのに」
「君もしつこいですね」

時折子どものように意固地になる右京の姿は、正直なところ心地良い。しばらくその様を観察していたい気もしたが、可哀相なのであまり焦らすのはやめておいた。

「デート、誘われちゃいました」
「はい?」
「だから、デート。ちゃんに」

ほんの冗談のつもりだったのだが、右京は恐ろしく真面目な顔をして、すぐさまあの機械的な動きでこちらに肉薄してきた。

「君は今自分が何を言っているのかお分かりですか」
「ちょ、右京さ……冗談ですよ、ほんの冗談に決まってるじゃないですか」
「冗談ですまされる問題ですか」
「はいすみません悪戯が過ぎました……もう。前に一回ちゃんにコーヒー奢ったことがあるんですよ。俺はもちろん、金取ろうなんてこれっぽっちも思ってなかったですよ?でもちゃん、変にきっちりしたところがあるっていうか……お金のことはどうしてもちゃんとしておきたいからって。それで俺、そのときは、じゃあ今度ちゃんがちょっとしたもん奢ってよって    もちろん、俺は金取るつもりなんかなかったですよ?でもその場を収めるためにね、うっかりそんなこと言っちゃったんですよ。それで今夜、そのときのお礼がしたいんですって」
「……お礼、ですか」

心持ち身体を引いて、考え込むように眉をひそめた右京を見て、薫は軽い調子で言いやった。

「やだな、右京さん。いくらなんでもあんな若い子に手出したりしませんって」
「当たり前です!」

突然耳をつんざくような大音量で怒鳴りつけ、背後のスーツを引っ手繰った右京はそのまま嵐のように部屋を出て行った。あまりの事態に安全課の全員が唖然とその後ろ姿を眺め、怯えきった様子の角田課長がひょっこりとこちらに顔を出す。

「……あいつ、どうしちゃったの?」
「まったく……冗談もあそこまで通じないと、まいっちゃいますよ」

肩をすくめて、そのときは軽く笑い飛ばしたのだが。
あながち、笑ってもいられない状況が、薫の目の前にすぐ訪れることになるのだった。
「急に呼び出したりして、ごめんなさい」
「いーのいーの、気にしなくて。どうせ暇なんだからさ。それよりなんか食いに行く?お腹、空いてるでしょ」

待ち合わせの駅前で、彼女を隣に乗せて。大事な発表を負えてきたというその大きな鞄を後部座席に置いてやりながら、聞いた。

「それだったら、わたしが知ってるパスタのお店でも行きませんか?今夜はわたしが奢りますから」

そういえば、前に彼女を乗せたときにも、こんな匂いがしていたっけ。遠い昔、初めて女の子を好きになったときも、すれ違ったその子のふと香る髪の匂いに胸が高ぶったのを、なんとなく思い出した。あの子は今、どんな女性になっているのだろう。

「えっ?ちゃんにそんなことさせられないよ。それなら俺が奢るから」
「いーえ。この間のお礼ですから、今日はわたしが。あれからちゃんとバイト先探して、今はそれなりに収入ありますから」

もちろん、亀山さんほどじゃないですけど。そう言いながら、彼女はシートベルトを締めて微笑んだ。

「じゃあ、この次は亀山さんの奢りっていうことで」

それならば……いいかと、思った。
どのみちこの子の頑固さには、敵わないのだから。
大学の近くにあるパスタのお店に行って、ふたりで夕食をとって。しばらく話をして、それから車で、マンションまで送ってもらって。

「今日は……急な話だったのに、付き合ってもらって、ありがとうございました」
「ううん。気にしないで。俺も楽しかったから。パスタ、ごちそうさま」

彼の笑顔は、どこまでも優しい。けれど……本当は、こんなにも。

「どうしたの?」

膝に置いた鞄をきつく抱き締め、下を向いたまま動こうとしないこちらを見て、不思議そうに亀山が聞いてくる。この数ヶ月、ずっと悩み続けていたことを、ようやく口にする決心がついた。
顔を上げて、少し離れた路上に立つ街灯の明かりだけを受けて浮かび上がる亀山の顔を、真っ直ぐに見つめる。ただならぬ雰囲気にやっと気付いたのか、彼は目をぱちくりさせて口を噤んだ。

「亀山さん。ひとつだけ、お願いがあるんです」
「な、なに?」

息を呑む彼の音までもが、聞こえてくるよう。
静かな、夜だった。

「……抱いて、ください」

なにも、聞こえなくなった。水底に沈み込んだような、沈黙。ただ彼の瞳だけが、光を帯びて、きらめく。
はっとして、慌てて言い直した。

「あ……変な意味じゃ、ないんです。その……してほしいって言ってるわけじゃなくて……ただ……亀山さんに、抱き締めてほしいんです」
「……ちゃん、一体……どうしたの?」
「ごめんなさい……でも、わたし、」

少しだけ、目を伏せて    また、顔を上げた。

「亀山さんが、好きなんです」

その瞳が、戸惑いの色を浮かべて瞬くのが分かった。隠し切れない、透き通った、眼差し。

「でも……奥さんいるの、知ってるし……亀山さんがどんなに美和子さんのこと好きで、それに美和子さんがどんな素敵な人か……分かってる、つもりだから……だから、一度だけ    一度だけ、わたしのこと……抱き締めて、もらえませんか。それで、あきらめます。それで、忘れますから……だから、一度だけ……わたしを、抱いてください」

長引いた沈黙は、永遠に続きそうに思えた。逸らすタイミングを失ったかのように、ただ、じっと、互いの瞳を見つめ続ける。
やがてゆっくりと動いた亀山の右手が、こちらの肩を掴んで、そっと引き寄せた。
まさか本当に聞き入れてもらえるとは思わず、跳ね上がった心臓が、喧しく己の胸を打ち付ける。初めて触れたその首筋からは、少しだけ汗ばんだ煙草の匂いがした。

思い詰めた声音で、吐き出すように、亀山がささやく。その息が耳元に触れるだけで、身体中が、熱く熱を帯びるのを知った。

「……ごめん。俺……なにも、気付いてあげられなくて」

彼の肩に縋りついて、がむしゃらに首を振った。

「俺、鈍いから……なんにも、分かんなかった」

彼の優しすぎる匂いが、しっとりと全身を包み込んでいく。

「……応えてあげられなくて、ごめん」

ただひたすらに、かぶりを振った。だってあなたは、こんなにも。

「俺のことなんか……好きになってくれて、ありがとう」

やっとのことで、彼の肩口から顔を上げて    すぐ間近にあるその瞳を見上げ、微笑んだ。

「あなたのこと好きになれて、しあわせでした」

あまりに優しすぎる、その残酷な、瞳に。
ありがとう、さようなら
この温もりがあれば、わたしはまた、前を向ける。
(08.05.12)
3456hitを踏まれたLt.さんへ。リクエストは年の離れたたまきさんの妹が、薫ちゃんに片思いするお話。
妹、というのは少し難しい気がしたので、姪っ子にさせていただきました。リクエストありがとうございます!