「もー先輩!飲みすぎですよー」
「あーうっせ!おい、もう一軒、もう一軒いくぞ!」
「もう無理っすよ、俺、先輩と違って明日非番じゃないんすから」
「ぐだぐだ抜かすな!」
「……これだから酔っ払いは」
「あぁ?んか言ったか?」

肩を貸してある先輩が首を捻って唸ると、むっとするほどの酒気が鼻を刺す。芹沢は隠しもせずに顔を顰め、深々と嘆息した。抱えていた難事件が特命係の介入で本日無事に解決し、仏頂面の伊丹、疲労顔の三浦。三人で何軒か梯子したが、三浦は早々に帰った。そうすべきだったのだろう。悪酔いした伊丹は、いつもの三倍、質が悪い。
くだくだとわけの分からないことを捲くし立てる先輩を引き摺るようにして、彼のアパートまで歩く。だが道のりはまだ遠く、芹沢はまた一つ溜め息をつく。

伊丹のアパートに行き慣れているというわけでもなかったが、道はすっかり覚えていた。大通りから脇道に逸れれば先は薄暗く、時折疎らに設置された街灯が頼りなさげに点灯している。この細道をひとりで寂しく帰宅する先輩の様を何とはなしに想像し、芹沢は小さく苦笑した。無論そのような後ろ姿を目撃したことはないが。彼自身がここを通るのは酔い潰れた伊丹を引き摺って、という状況しかまず有り得ない。
大通りから伊丹のアパートまでのちょうど中間ほどに、小さな公園がある。くたびれた木のベンチがいくつかと、錆びついたブランコが残されただけの打ち捨てられた公園。芹沢は伊丹の重みと夏の夜の熱気に汗ばんだ首筋を掻こうとして、立ち寄った公園のベンチにその長身を横たえた。瞼を閉じた先輩は夢うつつに何やら意味不明な言葉を羅列している。
やっとのことで解放された腕を伸ばし、既に緩めてあったネクタイの結び目をさらに下ろす。

「まったく……気持ち良さそうに眠ってくれちゃって」

嘆息混じりにつぶやいて、彼は辺りを見渡した。人っ子ひとりいない、静かな夜の公園。数少ない街灯の明かりには群がるようにして小さな虫が飛んでいる。

「先輩、ちょっと待ってて下さいね。俺、何か飲み物買ってきますから」

確かこの近くに自販機があったはずだ。聞いているのかいないのかよく分からない伊丹は眼を閉じたまま軽く右手を挙げ、また呑気に大口を開けて眠り始めた。
肩を竦め、芹沢は懐から財布を取り出しながら歩き出す。

自動販売機は、公園を出て少し進んだ先にあった。
記憶が飛び飛びになっている。
気だるげに瞼を押し上げた伊丹は、素直に認めた。思考が朦朧と揺れる。随分と飲んでしまったらしい。芹沢の迷惑そうな顔と、杉下右京のしたり顔。特亀の勝ち誇ったような笑みを思い出し、苛々と眉根を寄せる。
見えたのは空だった。遠く都会の喧騒から滲む明かりに潰され、ぼんやりと明るく浮かび上がっているが。それでも夜空は夜空だ。

そこでようやく、伊丹は自分が公園のベンチに寝ていることに気付いた。

「………」

ますます眉間にしわを深く刻み、考えを巡らせる。自分は確か、芹沢に肩を借りて自宅への道のりを辿っていたはずだ。だからこそアパートに近いこの公園まで帰り着いているのだろう。
だが、どうしてここなのか。芹沢はどこへ消えたのか。

「……あんにゃろ、捨てて帰りやがったな」

吐き捨てるようにつぶやき、緩めたネクタイを抜き去る。ただの紐になったそれを胸の上で握ったまま、彼は呆然と空を見上げた。
満天の星空とやらを見たことは、まったくといっていいほどない。東京には空がないと、大学時代の友人は言っていたか。その男の実家に泊まらせてもらったことがあるが、あの夜の星空は本物のプラネタリウムのようだった。そう言うと、奴は「東京人め」と笑ったが。
今夜は星の並びが朧げながらにいくつか見える。これでも奴は、「こんなもんは空じゃない」と言うのだろうか。それならば、東京の空は一体どこへ行ったのか。生まれてからずっと見てきた、空だと思っているこの闇は一体何なのだろう。

柄にもなく感慨に浸っていると、突然どこからか甲高い犬の鳴き声が聞こえてきた。ぎょっとしてベンチに寝転んだまま首を捻る。
公園の入り口から、勢いよく走る小柄な犬と、そのリードに引き摺られるようにして若い女がひとり駆け込んできた。楽しそうではあるが、どこか疲れているようにも見える。よほど走らされたのだろう。

「待って、待ってってばケン!」
「……ケン」

犬の名か。複雑な思いでそれを繰り返し。
伊丹はベンチの上で上体を起こそうとしたが    失敗した。意識は随分はっきりとしてきたものの、まだ身体がついてこない。犬と女は真っ直ぐにこちらまでやって来て、そしてベンチの脇で止まった。

「あの……どうかしましたか?」

心配そうにこちらの顔を覗き込み、女が訊いてくる。ベンチの高さにも届かないほどの小さな犬の姿は見えないが、それでもその犬もクンクンと不安げに鳴いているのが聞こえる。
動こうとしたために再び回ってきたアルコールに視界を遮られながら、伊丹はようやく声をあげた。

「あー……あんま、気にしないで下さい。何とも、ありません……から」
「でも……その、大丈夫ですか?」
「あ、すみません!その人、ただの酔っ払いですから!」

その場の静寂を打ち破り、女が入ってきたものと逆の入り口から走り込んできたのは両手に缶を持った芹沢だった。慌てた様子で駆け寄り、身振り手振りを交えて必死に女に呼びかけている。

「あ、あー僕たち決して不審者じゃありませんからご心配なさらず!ただちょっとこの人を送り届けようと思って休んでたところだったんです!」
「んだよ、芹沢。てめ、いたのかよ」
いたのかよ!?誰のお陰でここまで帰れたと思ってるんすか!?」
「うっせ。俺を放置して帰ろうとしてただろ」
「してませんよ!ほら、麦茶買ってきただけなんすから!それとも大の大人の男ひとり三十分も引き摺ってかえって休むことも許されないんすか!?」

両手の缶を突き出して捲くし立てる芹沢に眼を付ける。芹沢が拗ねた顔で口を尖らせると、しばしきょとんと瞬きしていた女は小さく噴き出して笑い始めた。
片手で唇を押さえて笑う女は二十歳くらいか。思いがけず笑われてショックだったのか、単純に女に見惚れたのか。芹沢は当惑した顔でじっと女を見つめていた。つられてというわけではないが、伊丹もまた寝転がったまま
   まだ起き上がれそうにない   彼女を見やる。

薄明かりの中でも、女の伸ばした黒髪は綺麗な光沢を放っていた。ちょうど街灯が逆光になっていてその表情ははっきりとは窺えないも、朗らかに笑うその様子には好感が持てるし整った顔立ちをしているようにも見える。若くて健全な芹沢が見入るのも無理はない。
と、犬にじゃれ付かれたのか、芹沢は急にしゃがみ込んで子供でもあやすような作り声をあげた。一方の女は申し訳なさそうな顔をしてリードを自分の方に引こうとしている。

「ご、ごめんなさい……こら、ケン!」
「へえ、ケンっていうんですか。人懐っこい子ですね」
「それだけが取り得ですから」

苦笑しながら、女が頷く。立ち上がった芹沢は麦茶の缶を持ったまま、やはり呆然と女の顔を見ていた。
それが無性に腹立たしく、勢いだけで身体を起こした伊丹は彼の手から冷えた缶を奪い取る。虚を衝かれた芹沢はつんのめりそうになりながらも恨めしげにこちらを睨んだ。無視して、開けた缶に乱暴に口を付ける。
だがこちらに恨み言を言うよりも先に、女に魅力を感じたらしい芹沢は愛想よく笑いながら口を開いた。

「でもこんな時間に散歩ですか?この辺りは暗いですし、危ないですよ。なんならこれからお送りしても」
「あ、いえ、大丈夫です。この子もいますし、毎日大体この時間に出てますから」
「そうですか?でも本当に気を付けて下さいね。最近はなにかと物騒ですから」
「ご丁寧にありがとうございます」

何が可笑しいのか、女はくすくすと笑う。それが決定打になったらしい。芹沢は空いた片手で頭の後ろを掻きながら照れ臭そうに女を見返した。あいつのあの笑い方は、本気になった時のあれだ。

(まったく……若いってのはいいねぇ)

焼け付くような喉に、冷たい麦茶を流し込む。それからも芹沢は女の気を引こうと必死に犬の相手をし、傍目に見れば儚げとしか思えないひたむきな努力を続けている。

(……そういや、俺も若い頃はあんなだったかな)

思い返し、我知らず失笑する。いや、自分はああやって滑稽な姿を惚れた女の前に晒してなどいない。そもそも見ているだけの片思いで終わるものがほとんどだった。当たって砕けておけば良かったと思うこともあるが、悔いたところで仕方がない。が、この年になれば玉砕などとても恐ろしくてできやしない。

(ひとりで終わる、か)

何とはなしにつぶやいて。
飲み終えた缶をベンチの上に置くと、自分がどれほど女を足止めしているかに気付いたらしい芹沢が大慌てで頭を下げるところだった。

「す、すみません……俺、つまらないことを一方的に……!」
「いいえ。とっても楽しかったです」

迷惑そうな空気を微塵も感じさせず、女が首を振る。彼女の犬もすっかり芹沢に懐いているようだった。
リードを引いて、こちらに軽く一礼した女がゆっくりと歩き出す。

「それじゃあ……ほんとに、お気を付けて」

芹沢が呼びかけると、彼女は穏やかに振り向いて微笑んだ。今度は街灯の関係でその笑顔がよく見える。本当に綺麗な女だったが、自分が惚れるにはあまりに若すぎる。

(……何ふざけたこと考えてんだ)

一瞬でも思考を塞いだ奇妙な感情に気付いて、己を叱咤する。伊丹は既に空になった缶を再び持ち上げて無意味に唇をつけた。
女の姿が完全に見えなくなってから、芹沢が呆けた間抜けな声を出す。

「先輩、ここでしばらく待ってたら、あの子また戻ってきますかね?」
「……ぶわぁぁぁか。ストーカーの現行犯で引っ張るぞコラ」
「え、そ、そんなつもりじゃないっすよ!!」

上擦った悲鳴をあげながら芹沢が必死にかぶりを振る。だが、それなりに自覚はあったらしい。それ以上は、ここに留まりたいとは言わなかった。

「もういい。さんきゅー。あとは一人で帰れる。俺はしばらく涼んでくからお前は勝手に帰れ。明日も労働に励めよ」
「え!?それってまさか、自分だけここであの子を待ってようなんて……」
「バカかお前は。俺があんな若い女に惚れるとでも思ってんのか」
「そんなこと分かんないじゃないっすか!だってあの子、めちゃくちゃ可愛かったでしょ!?」
「あー、うっせ。分かった分かった。じゃあ俺も帰る。だからお前も帰れ。これでいーだろが?」
「……分かりましたよ」

不服そうにつぶやいて、芹沢はずっと左手に握っていた缶を開けた。
彼に小銭を手渡し、伊丹は物憂げに腰を上げる。

「あ、先輩。お釣り……」
「んあ?要らねえよ、取っとけ」

遠慮の欠片も見せずに、芹沢は「ありがとうございます」と言ってそれをポケットに仕舞い込んだ。まったく現金な奴だ。
酔いはほとんど醒めていた。空を見上げ、眼を細めながら歩き出す。眩しいわけではなかったが。

「んじゃな。真っ直ぐ帰れよ」
「分かってますよ。おやすみなさい」

振り向く代わりに、片手を挙げて返す。
その日はそのまま、アパートに戻ったが。

知らないうちに芹沢と楽しそうに話すあの女のことを思い出している自分に気付き、伊丹はますます眉根を寄せた。
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(06.10.10)