蒸し暑さも極まる八月の夜のこと。
散歩がてら近所のコンビニまでビールを買いに行く。あの日以来、あの公園の前を通り過ぎる時には自然とそちらに視線がいくようになった。
もちろん、そう簡単にあの女に会えるとは思っていなかったが。
いつものように、いつもの道を辿る。
公園の前まで帰ってきた時、伊丹はふと足を止めた。缶ビールが三本入ったビニール袋を提げ、ぼんやりと片隅のベンチを見やる。
爪先は、自然とそちらに向かっていた。
塗料の落ちたベンチに腰を下ろしながら、自嘲気味に独りごちる。
(これじゃあ芹沢と何にも変わんねぇな)
あの後輩はあれから何度か鬱陶しいほどに「先輩、送りますよ!」と帰り際の彼についてこようとしたが、その度に撥ねつけた。あいつは笑えるくらい何もかもが見え透いている。いや、隠そうともしていないだけだろうが。
脇に置いた袋から缶を一つ取り出し、人差し指で引き開ける。
彼はそのまま勢いに任せ、右手のビールを一気に呷った。蝕むような暑さにその清冷な液体は心地良い。味わうためではなく体内に籠もった熱気を冷ますためだけに喉を動かし、あっという間に空になった缶を少し離れたゴミ箱に放り投げる。ビール缶は歪んだ曲線を描いてうまい具合にその中に落ちてくれた。
汗ばんだ額を撫で、背中を逸らせて大きく伸びをする。
見上げた夜空には広く雲がかかり、伊丹は重々しい心地でそっと瞼を閉じた。ゆっくりと、深く呼吸を繰り返し、やはり古い友人のことを思う。卒業後田舎で就職したあの男とはこの十年連絡すら取っていなかったが、それでも学生時代の記憶は今でも時折こうして浮かんでくる。
九州の南
小さな港町だった。潮の香りと、波の音。彼方で響く汽笛。東京という大都市が潜在的に持つ澱みをまったく寄せ付けない。休暇に入ると揃って普通電車を乗り繋ぎ、二日がかりでその友人の実家に戻ったことが何度もあった。自分の実家にいるよりも九州に滞在する時間の方が長いことを、両親はよく口煩く非難してきた。
二つ目の缶を開けようと手を伸ばしたところで。
ふと、視界の隅に動く何かを見つける。冷たい缶に触れたまま、彼は首を巡らせてそちらを見た。
女だった。ぬいぐるみのような小さな犬と
若い女。あの時の。
ほんの一瞬で彼の心臓の鼓動は高鳴ったが、そのすぐ後に襲ってきたのは後ろめたさだった。結局のところ、自分は芹沢よりも質が悪い。表では分かりやすい芹沢を責めながら、自分はこうしてこそこそと彼女の散歩ルートに居座っている。
女は少し驚いた顔をしてから、飼い犬の反応を見て思い出したらしい。なぜか嬉しそうにこちらに走り寄ってこようとする犬を制しつつ、にこやかに微笑んでみせた。
それを見るとますます、罪の意識だけが色濃くなっていく。
「こんばんは。あの……先日、お会いしましたよね?」
あの夜、遊んでやっていたのは芹沢のはずだ。だがその小犬
犬の種類には詳しくないが、日本犬の何かだ
は本当に人懐っこいようで、戸惑う伊丹の足にまで絡み付いてきた。
女はそのリードを手前に引きながらも、半分は犬の好きにさせている。伊丹は慣れない手付きで犬の白い頭を撫でてやった。はち切れんばかりに尻尾を振るその姿に、思わず頬が緩む。
女はほっとした様子で、同じ言葉を繰り返した。
「先日、お会いした方ですよね?覚えてらっしゃいますか?」
覚えていなければ、こんなところには留まっていない。この蒸し暑い深夜に公園でアルコールを呷るような趣味はない。
目線を上げると、こちらを覗き込むようにして腰を屈めている女の顔が思った以上に近くにある。それが目の前で微笑んでいるものだから、伊丹は瞬時に頬に熱がこもるのを感じた。
(……何考えてんだ俺は!)
思わず口元を押さえ、ごまかすように下を向く。
「え、ええ……もちろん。奇遇、ですね」
奇遇なものか。あの時間帯を意図的に狙っていたことは自分が一番よく分かっている。
女は「やっぱりあの時の方ですか」と嬉しそうに笑った。それだけで、どんどん身体中の体温が上昇していくのが分かる。缶ビール一本とはいえ飲み込んだアルコールもそれを助長しているのだろう。せめてそう思いたい。
「あの時にご一緒だった方は、今日はいらっしゃらないんですね」
「あ、ええ。あいつは
あぁ……この辺の奴じゃ、ないもんで。あの日はたまたま」
「そうですか」
そこで女が残念そうな表情の一つでも見せれば、また別の感情が芽生えていたのかもしれない。だが女は静かに微笑んだまま、小犬の後ろにしゃがみ込んでその背を愛おしそうに撫で始めた。
やはりビールが理性を少なからず塞いでいるらしい。地面に腰を落として俯いた女の襟元から、街灯に照らされて僅かにその地肌が覗いた
本来衣服で覆われているべき部位。
カッと喉の奥が焼け付くように熱を帯び、伊丹は慌てて目を閉じた。激しい鼓動が直接鼓膜を叩くようだ。いけない。自分は酔っている。情けないことに、たったの缶ビール一本で。
(まったく……最低じゃねぇか!)
声には出さずに、毒づく。発狂しそうなほどの自己嫌悪はますます増大していった。芹沢のことを思い出すとそれは急速に速度を上げていく。
(最低だ、最低だ……これじゃ俺がストーカーだっつーの!)
偶然だと言ってしまえばそれで終わるだろう。計画的だということを証明するものは何もない。だが実際、自分は時計を見ながらこの公園に留まっていた。他のどんな人間には明かし得ないとしても、自分はこの場所で彼女を待っていた。
たった一度遭遇しただけの、名前も知らない女を。
自分は酔ってしまっている。
これ以上、ここにいてはいけない。
立ち上がろうと、眼を開けると
こちらを向いた女がちょうど、訊ねてくるところだった。
「ご近所の方なんですか?」
出鼻を挫かれ、ベンチの上でつんのめる。何とか踏み止まったものの、女は心底不安そうな声で「大丈夫ですか?」と言ってきた。どんな顔をすればいいのか分からず、小犬を見下ろしてその首筋を掻いてやる。
「ええ。そこを真っ直ぐ奥へ入ったところの、突き当りの……」
「あ、ひょっとしてベルコープのことですか?」
こともなげに訊いてくる女に、伊丹は驚いて眼を見開いた。まさか言い当てられるとは思わなかった。この周辺にはそう多くはないものの、アパートやマンションはいくつかある。
「研究室の先輩が住んでるんです。それで、何度かお邪魔したことがあって」
研究室。いかにも学生らしい響きに、どこかむず痒さを感じてしまう。その女がどうだということではなく、そんなにも年の離れた若い娘を多少なりとも如何わしい視点で見ている自分がたまらなく不快だった。
女は、そこからほんの百メートルほど離れたマンションに部屋を借りているという。この付近では珍しい犬猫飼育を許可された集合住宅で、それがために大学から距離のあるそのマンションに決めたのだそうだ。
素直な悦びと、どうしようもない葛藤。それらのせめぎ合いを繰り返しているうちに、立ち上がった女は朗らかに夜空を仰いだ。
「空、お好きなんですか?」
一瞬、意味が分からず女の顔を見返す。彼女はさして気分を害した風もなく、こちらに視線を落とした。
「今夜も、この間も。ずっと、空、見てらっしゃいました」
自覚はなかったが。それならば、そうなのだろう。伊丹は緩んでくる口元を隠しもせずに、言ってのけた。
「『こんなもんは、空じゃない』」
「……?」
「
っていうのは、俺の古い友人の言ってたことですよ。東京には空がない。最初は、あいつが何言ってんのか分かりませんでしたけど……そのうち、そいつの実家に行ったんですよ。鹿児島の海岸沿い。プラネタリウムみたいな空だった」
そこまでを口にして。ふと、我に返る。
慌てふためいた伊丹はベンチの上で僅かに飛び上がり、危うく足元の犬を蹴飛ばしそうになった。
「あ、す、すいません……俺、何言ってんだか……」
たまたま遭遇した得体の知れない親父が、何の脈絡もない古惚けた昔話を語る。これほど鬱陶しいことが他にあるか?まったく、自分はやはり酔っているようだ。
だが女はまったく表情を変えず、空を見上げたまま囁くように言った。
「空」
独り言だったのか。どちらにせよ、彼の耳には届いたが。
「その空、私も見てみたいな」
それはやはり、独白だったのだろう。答えを求める気配もなく、女の眼が楽しげにこちらを向く。
「機会があれば、またお話したいです」
予期せぬ言葉に、伊丹は言葉を失って硬直した。小犬の鼻先が足を軽く押すのを感じる。
「お名前、お伺いしても構いませんか?」
どうして、こんなことに。
夢でも見ているのか。
彼女は純粋な瞳で俺を見ているというのに。
俺の不純な目論見を見抜いてはくれないのか。
名乗ってしまったら。引き返せない気がした。
名前を聞いてしまったら。
二度と、戻れない気がした。
それなのに、彼の唇はそれを紡いでいた。
「
伊丹、です。伊丹憲一」
彼女が嬉しそうに頷くのを見るだけで、満たされていくのを感じる。そして貪欲な心までも蠢く。
「あなたは?」
言ってしまったその問いに、女は何の疑念も持たずに答えた。
「です。」
言わないでくれ。
何も、言わないでくれ。
笑いかけないでくれ。
問わないでくれ。
少しは警戒してくれ。
君はまだ、俺のことを何も知らないだろう。
誰にでもそうやって、微笑むのか。
俺の名前など、すぐに忘れてしまってくれ。
いつでも俺の側で、笑っていて欲しい
。
「それじゃあ、伊丹さん。お話、楽しかったです。おやすみなさい」
「……おやすみ、なさい。気を付けて」
慇懃に頭を下げて、女が去っていく。。噛み締めるように、反芻する。
送りますよ。芹沢のように言えたら楽だったのに。
何も言えずに。何もできずに。ただ苛立ちだけが募っていく。
やはり自分は、酔っているのだ。
自身への憤りを拳に込めてベンチを殴りつけ、伊丹は荒々しく立ち上がった。缶ビールが二本残ったビニール袋を掴み、家路を急ぐ。
二度とあの公園に立ち寄ってはいけない。分かっていたはずなのに。
また声が聞きたい。あの笑顔が見たい。
それだけでは済まないような気がして。
「……馬鹿野郎」
呻くように、つぶやき。
帰り着いた伊丹は手にした袋を構わずベッドの上に叩き付け、きつく、きつく
瞼を閉じた。