「参事官、杉下警部がお越しです」
「通して」
 あくまで平静を保って、いつもの癖である万年筆の尻を意味もなく机上に押し付けることもせず、ただひたすら、その到着を待つ。
 現れた男はにこりともせずに戸口で黙って一礼し、こちらの机の手前まで澱みなく突き進んできた。不整脈のように打ちつける鼓動を押し隠すようにわずかに唇を噛んで、告げる。
「分かっているわね?ここに呼ばれた理由を」
「ええ。つまりあなたのほうにも、あえてわたしをこの部屋へ呼ばなければならない理由がある。そういうことですね」
「揚げ足をとらないでちょうだい。不愉快だわ」
 ぴしゃりと言いのけて、深々と腰掛けた椅子を眼前の男から少しだけ逸らした。
「今すぐあなたたちの捜査活動を中止して。なんの権限があって及川議員の周辺を嗅ぎまわっているの」
    亀山君を襲わせたのは、あなたですか」
 単刀直入にそう聞いてきた杉下へと、刺すように視線を突きつける。それであの男が、まさか怯むはずもなかったけれど。
「口を慎みなさい。一警察官のオフに起こった事故にまでわたしは責任を持てない」
「あなたが今回の一件にあくまで関与していないとおっしゃるのでしたら、ですが」
 強い口調ではない。だがその声には、真っ直ぐに向けられた眼差しには。それだけの光が、あった。
 けれども。
    杉下。あなたの能力は評価している。特命係がこれまでに解決してきた数々の事件を、忘れたわけじゃない。犯罪に対するあなたの強固な姿勢にも昔から一目置いてきた。だけどね」
 手元の机上に軽く肘をのせて、はっきりと告げた。
「あなたも組織に属するのならば、組織の掟に従いなさい。これまでに何度、あなたたちの勝手を許してきたと思うの」
「組織人としてのわたしがいかに欠陥品であるかは心得ているつもりです。ですが、警察官として、我々が決して忘れてはならないことがある。そうは思いませんか」
 一言一言が、重く、胸の中に圧し掛かってくる。だから、こわかった。だから。
 けれど    それでも。
「及川議員がホテルで密会していたという女性は、あなたですね」
 心を決めて視線を上げ、杉下右京の瞳を見据えた。
「証拠がある?」
「今はまだ。ですが必ず見つけます。たとえ相手があなたでも    僕は決して、許しません」
 彼の身体が、ほんの一瞬だけ、静かに燃え上がる怒りに戦慄く。まるでそれが感染でもしたかのように打ち震えたことを覆い隠すように、視線の先を変えて空ろな笑い声をあげてみせた。
「変わらないのね。あの頃から、あなたは少しも」
 椅子をくるりと回して、背後の窓、ブラインドの下ろしたそちらを遠目に眺める。
「わたしが何を犠牲にしてこの椅子を手に入れたか分かる?」
 もとより答えを期待していたわけでもない。さほど間を置かずに、すぐさま振り向いて続けた。
「正義よ。あなたのような、青くさい理想」
 彼は、眉ひとつ動かさない。そのポーカーフェイスの奥に、どうしようもないほどの熱さを帯びた、おとこ。
「だからあなたは出世には興味がないのでしょう。でもね、人間が集まれば組織は生まれるの。組織ができればそれを束ねるリーダーが必要になる。階級が生まれる。上位に位置する人間は必ず現れる。それが必要だから。わたしはその波にのったの。捨てなければならないものは捨ててきた。それを捨てなければならない人間がいるの。必ず    いるのよ」
 杉下はしばらく、何も言わずにただじっとこちらを見据えるだけだったが。
「それが言い訳ですか」
「……なんですって?」
「忘れたのですか。警察官に、最も必要なもの……あなたが、口をすっぱくして僕にそれを教えてくれたのではなかったのですか」
 その瞳が。回顧にほんの一瞬    揺らいだように、見えた。
「……だからあなたは、出世できなかったのよ!」
 なにもかもを否定するように、腹の底から声をあげて、怒鳴った。
 どうかしましたかといって不安げな顔を覗かせた部下を追い出して、椅子に座り込んだまま、乱れた呼吸を整える。杉下は相変わらず表情を崩さないままに、黙ってこちらを見ていた。
 苛立つものをそのまま声に含んで、続ける。
「あなた、一体何のつもりなの。ひとつひとつの事件の『真実』を見つける……ええ、ご立派な仕事ね。だけどそれでこの国が成り立つ?あなたはあなたのやり方で満足して、それで終わりでいいでしょう。でも上にいけばいくほど、より広いものを見なければならないのよ。あなたは目の前の事件ひとつひとつにただ向き合っていればいい。でもそれだけじゃすまないのよ。わたしたちは、もっと大きなもののために動かなければいけないの。そのためには、捨てなければならない理想がたくさんあるのよ」
 言葉は、次から次へと自然に、飛び出した。一気に捲くし立てて、不意に空しさを覚えて広げた両手に顔を伏せる。そしてどこまでも、杉下の答えは冷たかった。
「その『より広いもの』のために、あなたは卑劣な犯罪者をも庇うのですか」
 返す言葉を見つけられずに、ただ呆然と、目の前の男を見つめ続ける。
「証拠は必ず、見つけます」
 そして慇懃に一礼して踵を返すその男を    とめることは、できなかった。
12時を過ぎてもとけない魔法
MICROBIZ - NERURATORATE (08.05.19)
9係シーズン3#5を見てどうしても書きたくなったネタ。