あの事件が起きて、わたしは警視庁を去り

彼は、特命係という名の僻地    あの人が都合の良いときに、都合よく使えるだけの体のいい部署へ、飛ばされたという。

あれから、早九年。

あなたはまだ、あの箱庭の中にいるのですか。
親愛なる貴女へ
 日本 の土を踏んで、今日でちょうど一週間だった。目まぐるしく移り変わる都会の風景は、決してあの頃のままなどではありえない。けれども人々の過ぎ去っていくその一点を見つめていれば、おのずと見えてくるものがあることもまた事実だった。
「おかわりはよろしいですか?」
 窓際に座ってぼんやりガラス越しに大通りを眺めていると、空っぽになったカップを覗き見た店員がカフェオレのポットを片手に聞いてきた。ありがとうといって、遠慮なく三杯目を注いでもらう。ドーナツは、とうの昔に食べつくしていた。
 つけてもらった砂糖を脇に退けながら、視線を窓の外に戻す。と。
 人の行き来が激しい往来の中にあって、その場にたたずんでただじっとこちらを見つめているひとりの男と、目が合った。
 脳裏に刻み込まれたその顔をはっきりと認識するまでに、それほどの時間は必要ない。
「驚きました。まさかこんなところで貴女にお会いできるとは」
「ええ……まったく」
 間の悪い返事をしながら、彼が買ってきてくれたコーヒーの缶を手のひらで転がす。公園の噴水のそば、二人掛けの小さなベンチに並んで腰を下ろし、彼女は子供たちの走り回る様子を見ていた。
 音を立てて開けた彼の缶から立ち上ってくるのは、甘ったるいミルクティーの香り。嗅覚もまた、記憶の深くをひっそりと刺激した。
 だからずっと、紅茶を飲まずにいたのに。
「フランスにいらしたのでは」
「ええ……大学に戻って、ずっと政治学の勉強を。帰国したのは、六年ぶりですね」
「六年前にも、戻っていらしたのですか」
 ほのかに香る紅茶の匂いが、あまりにも憎い。乱暴に開けた缶を口元に運び、ブラックのコーヒーを飲んだ。
「あなたは……まだ、警視庁にいらっしゃるそうですね」
 ちらりと横目で盗み見て、尋ねる。彼は前を見てほとんど表情も変えず、何も答えなかった。
「驚きました。あなたは……組織という体質の、裏の裏までもをよくご存知の方です。そのあなたが……あんな事件のあった後で、もう十年近くずっと    あのような組織に、属しているだなんて」
「それではお聞きしますが、警察を辞めたからといって、何が変わりますか。ただ逃げるばかりでは、何も変えることなどできませんよ」
「わたしが逃げたとおっしゃりたいんですか」
「いいえ。それが貴女の選択なのですから、僕にそれをとやかく言うつもりはありません。貴女は現在その世界で、ずいぶん名の通ったお仕事をされているようですからね。いくつか論文を拝見させていただきましたよ」
     どうして。わたしは、ずっと、ずっとずっと。
 あなたのことを忘れるためだけに、ただがむしゃらに走り続けてきたのに。温もりの残る缶をきつく、きつく握り締めて、固く引き結んだ唇を噛む。
 訪れた沈黙を打ち破ったのは、どこからか聞こえてきた威勢のいい男の声だった。
「右京さん!なんだ、こんなところにいたんすか」
 はっとして振り向くと、噴水の向こう側から、深い緑色のジャケットを羽織ったスポーツマン風の男が駆け寄ってくるところだった。穏やかに目を細めて、杉下もまたそちらに向き直る。男はこちらをちらりと一瞥すると、ばつの悪い顔で少しだけ杉下に顔を寄せた。
「お邪魔でした?」
「いえ。紹介しましょう、以前二課でご一緒させていただいたさんです。さん、こちらは、今一緒に仕事をしている亀山くんです」
    例の、特命係でですか」
 品定めでもするように、上から下までその男をじっくりと観察してから    素っ気なく視線を外して、残りのコーヒーを飲み干す。亀山は少なからず戸惑ったようだったが、杉下が再び口を開いたのでまたそちらに顔を向けた。
さんは現在パリ大学で政治学を専門にされているんです。久しぶりに帰国されたそうで、先ほど、偶然」
「へぇ……不思議な巡り合わせって、あるもんですね」
 不思議な、巡り合わせ。そんな簡単な言葉で、わたしたちの……遥かな、歴史を。
「しばらく、欧米の政治ばかりを見てきましたからね。日本の政界が今どうなっているのか、それを勉強しに」
 そして空っぽになった缶を指先で摘みながら、振り切るように立ち上がった。
「それじゃあ、わたしはこれで。杉下さん、コーヒー、ごちそうさまでした」
「あっ、俺たちこれから飯食いに行くんですけど、さんも一緒にどうっすか?」
 当然のようにそう言ってきた亀山に視線を投げかけて、微かに、笑む。
「ありがとうございます。ですがこの後、人と約束がありますから」
「そうっすか?それじゃ、残念ですけど」
 心底残念そうな顔をしてみせたのは、亀山薫、ただひとり。
 おもむろに立ち上がった杉下は空いた右手をそっと差し出し、僅かに細めたその目で真っ直ぐにこちらを見た。
「貴女のさらなるご活躍の知らせを、心待ちにしています」
「……お元気で。杉下さん」
 その温かい手を軽く握り、願う。鼻腔に感じる紅茶の香りは、これで、おしまいに。
「ひどいなぁ、ちゃん。僕の誘いは断るのに、よりにもよってあの杉下とはデートするだなんて」
「……やめてください。ご存知のくせに」
 黒塗りの車の後部座席に、並んで座ったふたりの男女。男は流し見るように傍らの女性に視線を移した。
「六年ぶりの感動的な再会だっていうのに、相変わらずつれないねぇ」
「素直なわたしなんて、気味が悪いと思いません?」
「あら。それはつまり、ほんとは僕との再会を喜んでくれてるってことかしら?」
「ごめんなさい。そんな風に聞こえたとしたら、言葉のあやです」
「ふーん。まあ、君は変なところだけあいつに似ちゃったものね」
 彼女はさして表情を変えなかったが、さり気なく窓の外を見てそっと瞼を伏せた。
「それより、お約束の件は果たしていただけるんですか?」
「もちろん。いい人紹介してあげる。その前に、一緒にお寿司でも食べに行かない?」
「ごめんなさい。こんな時間ですから、先に済ませてしまいました」
 男は僅かに口元を緩め、どうということのない素振りで足を組みなおした。
「そう。残念ね、僕も気に入ってるお店なんだけどな」
「ごめんなさい、官房長」
 座席の後ろにゆったりと背中を預け、男が鼻から小さく息を抜く。
ちゃん、それは言わない約束じゃなかったかしら」
 彼女は初めて男の方に向き直り、その艶やかな唇に空虚な笑みを浮かべてみせた。
「ご存知ですか、小野田さん。約束は、破られるためにあるんですよ」
「そうね。そうかもしれないわね」
 小野田は微笑みながら、運転席でハンドルを握る男の背に声をかけた。
「真っ直ぐ、迫口先生のところに行ってちょうだい」
「かしこまりました」
今度は、わたしがあなたを利用してあげる
Lovepop - NERURATORATE (08.05.04)