本当は、君が行くはずだったそうだな」
 その、たった一言。些細な、どうということのない、ささやき。そんなことはいいのだ。そんなことは、もう、どうだっていいのだ。渡の父親はそういった。『いいんだ。どのみちあいつは、かえってこない』    けれども。
「渡。相談が……あるんだ」
 忘れられない。きっと。忘れては、ならない。
「本当は、君が」
 身体いっぱいに響き渡る、鐘の音。それは決して、永久にやむことのない。

「……わた、る」

 真新しいゼッケンを胸元で抱き締めたまま、焦がれ続けたその名を、呼んだ。
 東京ビッグシティマラソン。走り抜く、つもりだった。少なくとも    あいつと出逢った、あの倉庫、までは。
 けれど。
「覚えてるか?渡は、何よりもコーヒーが好きだった」
 渡の父親は、スティックのからをいつも独特なやり方で折った。それを脇に置きながら、手の内の紙コップをぼんやりと見つめている。
 渡の好きだった、コーヒー。
「わたしの淹れるコーヒーが好きでね、毎日のように今日はまだかとせがむんだ」
「………」
「ときどきお礼にといって、わたしが休みの日にはホットケーキを焼いてくれた。やすえもそれが大好きでね、二人で一緒にマフィンを作ることもあったよ」
 まともにそれを聞くことができず、固く口を噤んで下を向いた。

「死んでくれないか」

 それは静まり返った倉庫の中で、確かに彼の耳に届いた。見開いた目で、真っ直ぐに、その瞳を見上げる。渡の父親は、まったくの無表情で彼のことを見下ろしていた。
「君のこれまでの協力には、感謝している。だが、あとはわたしひとりで決着をつけたいんだ。君が生きている限り、わたしの心は決して休まらない」
 彼はその内ポケットから、自然な動作で小さな小さな容器を取り出して机の上に載せた。
 本当は、泣いて叫んで、逃げ出したかった。 あのときと、同じように。

 けれど。
今度は俺が、誰かのために死ねるのならば
MICROBIZ (08.05.24)