本当は、優しい人だったの。とても。
とても やさしい、ひとだったのよ。
処刑リストの執行人、かつ東京ビッグシティマラソン爆破予告の犯人として、塩谷和範が手配された。
警視庁中のありとあらゆる人員が集められ、スタート時間までに塩谷を確保せよとの通達が下される。
そして時計の針は、残酷なまでにただひたすら、無情に回りつづける。
「、テメェそんなとこでぼさっと突っ立ってんじゃねー!」
こちらを突き飛ばしながら振り向いた伊丹が、行くぞと声を荒げる。
そのすぐ後ろから、今にも転びそうなほど慌てふためいて駆けてきた芹沢が、同様に捲くし立てる。
「ちゃん!早くしないと始まっちゃうよ!」
「は…はい」
そして他の捜査員たちの中に埋もれながら、なんとか二人の先輩を追って走り出した。
「…な、んで?」
言葉に、ならなかった。
もっと、もっともっと、伝えるべきことは、あったかもしれないのに。
「分かってくれよ。エルドビアの子どもたちは、俺たちの援助を心待ちにしてるんだ」
何度も、聞いた。聞かされた。それこそ、何十回も、何百回も。
スカートの上で握り締めた拳が、わたしの意図に反して、小刻みに、ふるえる。
「…わかってる、はずでしょ。どれだけ…危険な、場所か」
「大丈夫って言っただろ。武装地域に入らなければ、巡回だってあるし…
俺が行く予定の村は、町までそう遠くないんだ。心配するなって」
心配するなって?
いつだって、無茶ばかりして、人様に迷惑ばかりかけてるあなたがそんな危険な国に行こうというのに
心配するな、ですって?
あなたは、いったいどこまで、…。
「…それじゃあ、就職はどうするの。もしも…あなたに、もしものことがあったら、」
「FJKだぞ?俺があんないいところの内定、ふいにするわけないだろ。
絶対、無事に帰ってくるって。お前は心配のしすぎなんだよ」
ぴったりだと、いわれてきた。楽天家の塩屋と、厭世家の。
冒険が過ぎる塩谷には、やつをとどまらせるようなくらいの女が、ちょうどいいと。
そして実際、うまくいっていたのだ これまでは。
「休み中だけだって。すぐに戻ってくるから、そんな顔せずに待ってろよ」
「…わたしがいつまでも待ってると思ったら、大間違いだから。もうこんなにハラハラさせられるの、まっぴら」
「あー、そーかよ。それは結構だな。俺だってお前みたいに口うるさいのがいなくなれば清々するぜ」
こんな憎まれ口の応酬は、茶飯事だったけれど。
このときばかりは、きっとお互いに、その端々に含まれる微妙な音のニュアンスに気付いていただろう。
いつからか、ひらいていく ふたりだけの、きょりに。
塩谷が連絡をよこさないことには、慣れていた。どこかでNPOの活動に従事しているときは、なおさら。
だから気になって、気になって気になって仕方なくても、
塩谷のいないとき、わたしは素知らぬ顔でいつものように、いつもの日々を送っていた。
あいつのいないとき 陰で弱音を吐いたら、負けだと思った。
事態が動いたのは、夏休みも…後半に、差しかかったころ。
テレビで、木佐原くんを、見た。
武装集団に拉致され うつろな眼差しで、こちらを見つめるそのすがたを。
『敢えて退去勧告を無視したわけですから、これは自業自 』
無神経な顔をして、無神経なことを並べ立てるコメンテーターの番組を、きって。
「どういうこと」
何度携帯を鳴らしても、出なかった。
その足で押しかけた部屋の中、塩谷はやつれきった顔でドアを開け、薄暗い室内へとわたしをいざなった。
真昼間だというのにカーテンを閉め切って、明かりも、テレビも、パソコンも。
すべてを遮断し、ただ、そこにいる。
「どういうこと…なんで、木佐原くんがこんなことになってるの。
あなたが行くって言ったじゃない。自分を必要としてる子どもたちがいるんだって」
塩谷はしばらく、ぼんやりとカーテンを浮かび上がらせる外の光を見つめて。
「…こわかったんだ」
消え入りそうな声で、はきだした。
「こわかった…おれは、出発が近づくにつれて…どうしようもなく、こわくなった…だから、おれは…」
「だから?」
信じられない思いでその閉ざされた瞳を見上げて、首を振った。
「それじゃあ…木佐原くんは、あなたの身代わりに?」
びくり、と、彼の背中が身じろぐのが。この暗がりの中でも、手に取るように、わかった。
同時に 心の線が、かすかにふるえる。けれどもそれは、大きく、わたしの胸を打った。
叩きつけるつもりで、告げる。
「だから言ったのよ。情勢をもっと、注意深く見てるべきだった。それなのにあなたは、
わたしの言うこと何も聞かなかったんじゃない!それで…それで木佐原くんが、こんなことに!」
「分かってる!」
突然。破裂でもするかのように、塩谷が痛烈な声をあげた。
大きく震えるその後ろ姿が、今にもかすれて、消えてしまいそうだった。
「分かってるんだ…俺のせいで渡が、渡が…」
もっと他に、言うべき言葉があったのかもしれない。
けれど、わたしは…あのときの、塩谷の、得意げな顔を思い出すだけで。
「なにがボランティアよ。偉そうに、その場限りの思いつきなんかで」
ぱっと振り向いた塩屋の顔は、影が差していてこちらからは、見えない。
「あなたは身勝手よ。昔から、ずっと。これまでは、それですんでたかもしれないわ…
でも思いつきで動くには、あまりに危険すぎるところに自ら進んで踏み込んだのよ。
それなのに、結局は怖くなって逃げ出した。
木佐原くんになにかあったら…あなたに責任がとれる?
負えないものは背負うなって、ずっと…ずっと…」
今更そんなことを言っても、仕方がないのに。
本当は、あなたがここにいること 何よりも、心の底から、安堵していたのに。
言えなかった。
木佐原くんのこと、そして無責任に投げ出した 塩谷の、したことを思えば。
わたしは、ただ、罵倒するよりほかに。
そのわずか七日後、木佐原くんは遠い異国の地で、その命を落とした。
人形のように吹き飛んだ、彼のすがた。
以来、ニュースで彼の顔を見ることは、一度もなく、
訪れた密葬に、塩谷の姿は、なかった。
電話は、あいかわらず、つながらず
部屋はいつの間にか、からっぽで
そんな学生は在籍していないと、教務係から、聞いた。
「ヨツバデンキ倉庫、すぐ近くです!」
「急ぎましょう!」
ヨツバデンキ…そう、こ。
はっとして振り向くと、特命係の二人が大急ぎで車に乗り込むところだった。
まさか…。
「その地図、見せてください!」
先ほど特命に見せていたらしい地図を閉じかけた捜査員へと、駆け寄る。
驚いた様子で目を見開くその手から無理やり地図を取り上げて、この周囲を確認した。
あった ヨツバデンキの、倉庫。
「ありがとうございます!伊丹さん、車借りますね!」
少し離れたところで他の捜査員と難しい顔で何やら話し込んでいた伊丹に声をかけて、
答えを聞くよりも先に運転席に乗り込んだ。
ミラーの高さも、座席の位置も、背もたれの角度も。なにもかも、居心地が悪いけれども。
もしも、塩谷が本当に犯人なのだとしたら。
ブレーキを踏み切ったちょうどそのとき、すさまじい爆音とともに眼前の倉庫の窓が吹き飛んだ。
「何で黙ってた」
まさか自分がこの部屋で尋問を受けるだなんて、思ってもみなかった。
マジックミラーの向こうでは…きっと、お偉い方々が、わたしの処分を検討している。
激しい憤りを隠しきれず、ものすごい顔でこちらを睨みつけてくる伊丹から視線を外して、つぶやく。
「…その必要はないと、思ったからです」
「必要ない、だぁ?」
「分かってたはずだぞ、。関係者は捜査に関わるべきじゃない」
「関係者といっても、もう五年も前の話です。わたしは今回の捜査に私情を持ち込んで動いたことはありません。
それに今回は、少しでも多くの人員が必要だった、違いますか」
伊丹は一瞬口を噤んで傍らの三浦と目を合わせたが、すぐにこちらに向き直って語気を荒げた。
「それじゃあ人様の車をかっぱらってひとりで勝手に倉庫に行ったのはどう説明するんだ。
そもそも本当はやつの潜伏先に心当たりがあったんじゃねーのか!」
「それは違います。わたしは杉下警部の話しているのを偶然耳にしただけで」
「五年前とはいっても、付き合ってたんだろう?おまけに、三年も。そうそう切れねー間柄だと思うけどな」
疲れた顔で眼鏡を直しながら、三浦。そっと瞼を伏せて、唇を噛んだ。
切れる…わけがない。けれど。
「わたしの…せいだったんです」
「ん?」
老眼鏡のフレームの上から、ちらりと三浦が視線を上げた。
「あなたのせいだと、わたしが塩谷を追い詰めた」
目を見張る伊丹たちの顔を見ることはできず、ただ頑なに、下を向いていた。
「木佐原くんが拉致されたあのとき…彼は、絶望していました。それまで見たことがないくらい、激しく、
自分だけを責めて。その塩谷を、わたしは徹底的に責めた…追い詰めたんです。
許せなかった、彼の身勝手さが…臆病者だと、なじった。その数日後…木佐原くんが、あんなことになって…」
そして塩谷は、姿を消した。
「わたしが、追い詰めたんです。本当は…わたしが、彼の支えになってあげなければ、いけなかったのに」
たった一度だけ 約束した。安物のリングを交換した、そのとき。
わたしは確かに、あなたの味方だよ、と。
だから。
「だから…わたしが、終わらせてあげなければと、思っていました」
彼の非行も、痛みも、なにもかも。すべてだなんて、おこがましいけれど。
皮肉に鼻を鳴らして、伊丹がこちらの顔を覗き込む。
「終わっちまったよ 何もかも、全部な」
「…そうですね」
吐息のように、ささやいて。瞼を閉じた。
「こんなこと…望んで、なかったはずなのに」
本当に、終わったのだろうか。
木佐原くんのお父さんが逮捕され、Sファイルの存在とその実体が公表されて。
人々は木佐原くんの悲劇を思い出し、そして政府の隠蔽工作、またその体質を糾弾する。
塩谷は死んだ。木佐原氏も、死んだ。
けれども…本当は、何ひとつ。
「、お前には三ヶ月の減俸処分を言い渡す。これだけのことですんで、ありがたいと思え」
これだけの。
そう、よね…本当は、たった、これだけのこと。
何もかもがすべて、なかったことにされてしまう。誰からもやがて、忘れ去られてしまう。
「それならば、あなたが忘れなければいいのではありませんか」
杉下右京。かつては人材の墓場といわれ、誰からも疎まれる存在であったという、変わり者の刑事。
けれども、その頃の彼の姿を わたしは、知らない。
「あなたが覚えてさえいれば、彼の存在はなかったことにはならない。
彼らのやり方は間違っていましたが、Sファイルは確かに白日の下にさらされました。
彼もそのことを、強く望んでいたはずです」
そう…かもしれません、ね。
Sファイルは、消えない。そしてわたしが、塩谷にしたことも。
彼が確かに誠実な人間として、わたしの前に存在していたということ。
わたしが生きている限りは…なくならない きっと。
だから。
「杉下警部、これからイタリアンでもいかがですか」
「それはいいですね。ぜひご一緒させてください」
だからわたしは、前を向いて。
「ひとつだけ、約束してほしいことがあるんだ」
「なに?」
口付けた瞳の奥、重ねた手のひらの上で、彼は確かに、笑っていたのだった。
(
ふるるか 08.05.10)
当初『ヨツヤデンキ』にしてたんですけど、正しくは『ヨツバ』でした。
弥生さんご指摘ありがとうございます!(5/23)