見えないゴールに向かってずっと歩き続けているようなものだった。
いや、ゴールがあるのかすらも分からない。ただ当てもなく、だらだらと歩いているだけ。
会えなくなるということはないだろう。この世から殺人事件がなくなるか、彼が刑事を辞めるかしなければ。
どちらもあと数年は有り得そうにない。けれど。
このままでは気が狂いそうだ。
「……何とかしなきゃ」
私は痛む頭を押さえて物憂げに立ち上がった。
いつからだろう。いつも眉間にしわを寄せて私の所見を嫌そうに眺めるあの失礼な刑事に惹かれるようになったのは。
最初は私の解剖結果に疑問があるのかと思った。でも同僚の三浦さんによるといつもあの顔だから気にしなくてもいいとのこと。本当だろうかと怪訝に思いながらもある日用事があって警視庁に赴いた際、食堂でもあの顔で牛丼をつついていた彼を見てなるほどと納得した。
いつからかなんて本当に覚えていない。でもうちの研究室に彼が来るといつだって落ち着かない気分になるし、捜一が絡む事件が発生するとどうしても頭の中から彼のしかめっ面が消えない。それでも仕事に支障をきたしていないのはやはり私の腕の良さだと自負している。
ただ仕事上で協力することがある、それだけのことだ。だがそれだけの関係では満足できなくなっていた。
事実、先日半ば強制的に夏祭りに同伴させてしまった。そこまで怒った様子ではなかったので安堵しているが。あの日も彼の素っ気無い優しさと子供っぽさに殊更引き寄せられてしまった。もう、引き返せそうにもない。
でも、個人的な連絡先は全く知らない。アドレスも番号も。だから仕事で会うしかチャンスはない。だが捜一がうちの研究室に協力要請してくるのは殺人事件の時だけだ。悠長に話などしていられるはずもない。
だから私は、最後の砦に向かった。
大きな山も昨日片付き、久し振りに定時に帰れる。こう平和な日が続けばいいのに、なんて善人のようなことは言わない。そうだ、俺は早く帰って休みたいだけだ。
「こんな時間に帰れるの久し振りっすね!三浦さん、先輩、久々に一杯どうっすか?」
「お、いいなぁ。伊丹、お前どうする?」
「ん?俺か?俺は
」
どうすっかな。ここんとこあんま寝てねえからなぁ、帰ってゆっくりしたい気もするが。
「そうだな、俺は
」
「よ!捜査一課のタ・タ・ミぃー」
突然背後から聞こえてきた憎たらしいあの声に、俺は眉根を寄せて思い切り振り返った。そこにはニヤニヤと嫌味な笑いを浮かべた特亀、その隣にはあの落ち着き払った嫌味たらしい笑みを口元にたたえた警部殿
。
じゃ、ない。
俺は亀の隣に佇む予想外の人影に目を丸くして声を荒げた。
「な、な、な、何でお前が亀と一緒にいんだよ!」
アイツは不機嫌そうな顔をして口を開いた。
「私が誰と一緒にいようとあんたに関係ないと思いますが?タ・タ・ミ・くん」
「テメいい加減にしろよ!」
何度言えば覚えるんだ、俺の名前は伊丹だっつーのに!
コイツが本当に医大首席卒業の監察医の鑑なのか俺は未だに疑問視している。
亀は俺を見て相変わらずニヤニヤしていた。コイツのこの笑みほど憎たらしいものはこの世にない。
「先輩、今日は杉下さんと一緒じゃないんすか?先生と一緒なんて、何かあったんすか?」
芹沢の問い掛けに、亀は何でもねえよと言って声をあげて笑った。何だ、何かおかしい
亀の態度が明らかにいつもよりおかしい。そして何なんだ俺のこの無性に苛々する感情は。
亀は少し声のトーンを落として揉み手しながら三浦と芹沢に近付いた。
「二人にちょっとお話があるんだけど、ね?ちょっといいっすかね?」
「は!お前、亀、何企んでんだよ、あぁ?」
拳を握って怒鳴り上げた俺を、亀は聞き分けのない子ども扱いでもするかのように適当に宥めた。
「君には話はないの。俺はこっちのお二人に言ってるんだけど、ね?」
「テメ、亀!何わけの分かんねえことを
」
だが意味ありげに目配せした亀を見て、なぜか三浦も芹沢も急に合点のいったような顔をした。芹沢なんか満面の笑顔で俺に手なんか振ってきやがった。
「あ、先輩、俺と三浦さんこれから亀山先輩とちょっと話しあるんで先帰りますね!」
「は!おいコラ、芹沢、わけ分かんねえこと言ってっと
」
「伊丹、また明日な」
「は?おい、三浦まで何ふざけたこと言って
」
意味が分からない。何でだ、何で急にどいつもコイツも手のひら返したみたいに。
極めつきの笑顔で亀は俺に手を振って言った。
「んじゃ、お先♪」
そして亀と芹沢、三浦は三人揃って玄関ホールを突っ切って去っていった。後に残されたのは、言わずもがな俺との二人。俺だけ仲間はずれかよ!?
俺は黙りこくっていたに向き直って鼻息も荒く怒鳴り散らした。
「テメ、亀が何企んでんのか知ってんだろ!あの野郎芹沢と三浦誑かして何企んでやがんだ!」
「し、知らないわよ!バカなこと言わないで!」
怒った顔でそう言いつつもの様子も何か違う。絶対にこの女、何か知ってやがる>。
芹沢たちを追おうかとも思った。だが俺は素っ気無いの声に振り返った。
「これから、暇?」
俺は眉根を寄せて呻いた。
「忙しいように見えるか?」
「だったら」
そう言っては顔を上げ、ニヤリと小さく笑んだ。
「置いてけぼり食らった者同士、一杯どう?」
俺は思い切り不審そうな目でを睨み付けた。
「……何かの罠じゃねえだろうな?」
「バーカ」
本気でこの男、気付いていないらしい。ただ亀山君のろくでもなさそうな企みを考えるのに手一杯で私の目論見なんて微塵も気付いてくれやしない。
芹沢君と三浦さんもすぐに私と亀山君の意図を解して協力してくれたのは良かった。私の気持ちなんて前から知ってたんだろうか。
でも恋のキューピッド役を亀山君に頼むあたり、既に私は終わってるかもしれない。他に思い当たる人もいなかったのだから仕方ないといえば仕方ないが。かなり追い詰められていたということだろう。
私は亀山君と杉下さんに教えてもらった小料理屋に伊丹を引っ張っていった。そしたら女将さんがすごく綺麗な人で、少し失敗したと思ってしまった。
私は猪口、伊丹はグラス(ビールがいいと言って聞かなかった)で軽く乾杯する。彼はまだ亀山君の企みを必死になって考えているようだった。あーもう、二人でいる時くらい私のこと見て欲しい。
「この近くの方なんですか?」
女将さんが穏やかに微笑んで訊いてきた。女の私も見入ってしまうくらい美人だ。横目でチラッと伊丹を見ると、彼も例に漏れず少なからず彼女に見とれているようだった。あーほんとに、失敗した。
「ええ、私は。今日は亀山君と杉下さんの紹介で来たんですよ?」
私の答えに伊丹がビールを思い切りカウンターに噴き出した。
「何やってんの!」
噎せ返る彼を見て慌ててハンカチを取り出そうとすると、それより先に女将さんが布巾を出してくれた。伊丹はそれを受け取って慌ててカウンターの上を拭いた。
「テメ、亀の紹介かよ」
「いいじゃないの別に。いいお店じゃない」
伊丹は何か言い返そうとしたようだったが、クスクス笑う女将さんを見て思い止まったようだった。
「あの二人の紹介なら、今日はサービスさせてもらっちゃおうかしら」
そう言った女将さんは佃煮を出してくれた。その落ち着いた表情は、なぜか杉下さんを彷彿させた。
参った。コイツがこんなに弱いとは。
隣で潰れてしまったを見て俺は大きく息をついた。一本も飲んでないのにこのザマだ。何が、一杯どう、だ。誘った側が潰れてんじゃねえよ。
「大丈夫ですか?何なら今夜はうちで休んでもらっても」
心配そうな顔をした女将さんがカウンターに突っ伏したを覗き込む。ほんとに綺麗な人だ。
俺は首を振って言った。
「俺が連れて帰りますから、大丈夫ですよ」
「そうですか?」
俺は二人分の金を払って席を立った。一応の背中を揺さぶって確認する。
「おい、立てるか?あぁ?」
は何やら理解不能な単語をぼそぼそ呟いただけで反応らしい反応も見せなかった。溜め息をついての腕を自分の肩に回す。そして何とか立ち上がらせようとしたが、全く意識のないコイツを肩に腕を回させただけで起き上がらせることは出来なかった。
女将さんの手を借りて、仕方なく背負う。見かけより軽くて驚いた(別に太ってるとかって意味じゃなくて、あまりチビでもない割には、ってことだ)。
俺は夏祭りに引っ張り出された日の帰り道を、を背負ったままゆっくりと歩いた。そういえばあの金魚は元気だろうか。綿菓子は一人で食べたのか
クマとネコのぬいぐるみは部屋にあるんだろうか。
のマンションまで戻ってきて、しまったと思った。マンションはオートロックだ。どっちにしたってコイツを起こさねえと部屋には帰してやれない。
「……おい、おい。起きろ」
マンションの前のベンチにを座らせて、その頬を軽く叩く。だが彼女は小さく呻くだけで目を覚まさない。俺は傍らの自販機でミネラルウォーターを買って半ば無理やりの口に流し込んだ。は小さく噎せ返って虚ろな目を微かに開き、顎に零れた水を手の甲で拭った。
「起きたか、おい、マンションまで帰ってきたぞ。お前が起きねーとオートロック解除できねえから、我慢して起きろ」
はぼんやりした目で虚空を見つめながら、夢見心地に呟いた。
「……私、何でここに」
「は?バカか、お前が一人で勝手に潰れちまうから連れて帰ってきてやったんじゃねえか」
「……あ、ありが、と」
放っておくとまた眠り込んでしまいそうだったので、俺は慌てての腕を肩に回して今度はしっかり立たせた。そして玄関まで向かう。また頬を叩いて起こすと、はオートロック解除キーを押して玄関のドアを開いた。
「何階だ?」
「……五」
ほんとに、世話の焼ける女だ。
エレベーターで5階に上がってからの部屋まで辿り着くのにもかなりの時間を要した。コイツがまた意識を失って俺が五階中を歩き回る羽目になったからだ。アイツの部屋はエレベーターから一番離れた部屋だった。
ようやく鍵を出させてを部屋のソファに放り出した時には心底ホッとした。さすがに勝手に寝室には入れない。だが部屋の電気を点けた時、さっきアイツに飲ませた水が零れ落ちてシャツの胸元が透けていることに気付いて俺はどきりとした。慌てて目を逸らす。
駄目だ、見るな、何も考えるな。
悶々とするものを抑え込んで俺は居間を見渡した。俺のマンションより少し広い。さすがに医大の助教授に監察医までしてれば一端の刑事なんかよりも収入はあるだろう。
もっとピンク系のものが多いのかと思っていた。何となく。だが部屋は薄い青や緑が多く、意外と寒色系のグッズが揃えられていた。窓際には小さな鉢植えも3つ置いてある。全部俺が名前も知らないような植物だが。
そしてテレビの横には、あの日輪投げの景品でが取った(俺は一つも取れなかった)クマとネコのぬいぐるみが仲良さそうに並んでいる。それだけでなく、何年も集めてきたのであろうぬいぐるみが数え切れないほどその側に置かれていた。概して犬が好きらしい。
本棚には医学書の他にも心理学や歴史、小説など色々なジャンルの本が所狭しと並んでいた。疑ってはいたがやはり博識のようだ。伊達に助教授やっていないんだな。
ふと寝室を覗きたいなどという衝動に駆られたが、俺は頭を振って余計な雑念を払った。
何考えてんだ俺は!俺は潰れたを運んできただけだろ!
一刻も早く帰らなければ。歯止めが利かなくなるかもしれない。
俺はソファの上に横になり寝息を立てるに歩み寄った。
「……おい、俺そろそろ帰りてーから、な、頼むから玄関まで鍵閉めにきてくれよ。その後は好きなだけ寝ていいから、頼むから鍵だけ閉めに来い。おい」
は全く反応しなかった。頬を軽く叩くが効果なし。また水でも飲ませるか。だがその時が少し身じろぎしたせいでまたアイツの濡れた胸元のシャツが目に入って俺は慌てて顔を逸らした。
「いい加減にしてくれよ……なぁ、頼むから帰らせてくれ……」
鍵開けっ放しで帰るわけにいかねえし。ソファの足に背を預けて床に座り込んだ時、俺は突然スーツの袖を掴まれてひどく驚いた。
振り向くとソファに横たわったままが虚ろな目で右手を伸ばしてきていた。
「
帰らないで……」
どきりとした。何だ、コイツは
酔ってるのか。
そんな目でそんな声で、そんなこと言われたら。
身体が熱くなってくる。ヤバイ。
「帰らないで……側に、いて……」
やっぱりあの店に置いてくれば良かった。酔ってるんだ、コイツは
こんなこと言われたら。
俺はの手を俺の腕から離しながら溜め息雑じりに呟いた。
「お前、酔ってんだよ。大人しく寝てろ」
「……ねえ、伊丹……お願い、側にいて」
頼むから、そんな掠れた声で、そんな潤んだ瞳で。そんなことを言わないでくれ。
これだから酔った女はたちが悪いんだ。
「
あのな」
俺は身を乗り出しての虚ろな顔を覗き込んだ。
「二度と同じこと言うんじゃねえ。俺だって男だ。次はお前を襲わねえなんて保証はどこにもねえぞ」
は俺が掴んでいない左手で俺の顔をそっと撫でながら変わらず消え入りそうな声で言った。
「
好き……」
ドキッと決定的に心臓が高鳴った。落ち着け、コイツは酔ってるんだ
。
彼女が瞼を閉じると、その縁から澄んだ涙が一筋落ちた。
「……抱いて」
その時確かに。俺の中で何かが弾けて。
の上に馬乗りになった俺は腰を折ってアイツの唇に噛み付いた。ひどくアルコールの臭いがした。
「バカが……」
「
後悔してるんだろ」
「……何で?」
何で私が後悔なんてするの。こんなにも、満ち足りた気持ちなのに。
伊丹はソファに横たわる私の傍らに、こちらに背を向ける形で座っている。
彼は情事の後に煙草を吸おうとはしなかった。今まで付き合った男たちはみんな、吸いたがったのに。
そこも、好き。
「酔った勢いだったんだろが」
「バぁーカ」
私はシャツを素肌の上に被り直した。
「言ったじゃない
好き、って」
彼は振り向き、不審そうな顔をした。その左手を取って、指の間に何度も口付ける。
「そっちこそ、後悔してるんじゃない?」
彼の中指を少しだけ舐めてから、私は瞼を伏せて訊ねた。
「好きでもない、しかも職場でこの先何度も会うことになるような女と寝て」
すると今度は伊丹が私の左手を引いて勢いよく私を起き上がらせた。そのまま彼の方へと倒れ込む。
「バカはお前だ。俺がいつ好きじゃないっつったよ」
どきりとしたが、私は何ともないような口振りで言った。
「嫌いじゃないとも言ってないわ」
「テメ、可愛くねえな」
「お互い様ね」
伊丹はやはり眉間にしわを寄せたまま苛々した様子で口を開いた。
「バカか、俺は好きでもねえ女と寝たりなんかしねえよ」
嬉しいとか、私も好きとか、そんな甘い言葉は今の私には口に出来ない。ただ照れ隠しに、瞼を伏せて。
「だったらもっと、奉仕してもらわなきゃね」
彼はカチンときたように眉根を寄せた。
「……テメ、あんだけ良さそうにしてやがったくせに、まだそんなこと言ってんのか?あぁ?」
伊丹は私の両手首を掴んでまたソファに押し倒した。
スプリングがぎしりと微かな悲鳴をあげる。
「
上等だ」
伊丹がニヤリと笑った。
「好きなだけご奉仕してやるよ、お嬢様」
きっとゴールなんて、生きてる限り永遠に見えないものなんだね。