その夜、私は柔らかい羽毛布団の中で健やかな眠りについている最中、携帯から流れてくるドラマの主題歌の着信音に起こされた。
まったく、人がせっかく気持ちよく寝てたっていうのに……。

「……誰よ、うっさいわね!今何時だと思ってんのよ!」

名前も確認せず、電話に出るや否や怒鳴り散らす。すると携帯の向こうからは私に負けないくらい不機嫌そうな声が聞こえてきた。

「好きでお前なんかに連絡したんじゃねえよ!    起きろ、仕事だ……」

私はぼんやりした頭を掻きながらゆっくりと身を起こした。
仕事が終わったのは窓の外が完全に明るくなってからだった。赤く染まったビニール手袋を外し、部屋を出てマスクとキャップを取る。先に研究室に戻っていた助手の一人が心配そうな顔で振り向いた。

「……先生、大丈夫ですか?」

私は伏せていた瞼を上げて軽く鼻を鳴らした。

「何よ、三大欲求の中で睡眠欲が一番旺盛な私でも仕事くらいはきちんとこなすわよ。余計な心配してないで、出来上がった所見さっさと捜一に回してくれない?」
「あ、はい……でも先生、僕が言ったのはそういうことじゃなくて……」

私は助手を無視してデスクに着いた。彼は諦めたように息をついて警視庁に回す資料の仕上げにかかる。
分かっている。彼が何を言いたかったのか。でも私は、悩んでいる暇なんてない。
テレビをつけるとちょうど朝のニュースで昨夜の殺人事件が報じられていた。、三十五歳。東京湾岸で腹部を刺殺。事件と自殺の双方から捜査。
でも私は確信している。彼女は、自殺なんかしない。

が、自殺なんかするはずがないんだ    
私とは高校の同級生で、二十年来の親友だった。彼女はジャーナリストの道を選び、私は医大の法学研究室の助教授、かつ監察医。でも二人の関係は少しも揺らぎはしなかった。程よい距離、心地いい繋がり。事件の前夜もいつものように下町で飲んだばかりだった。

だから警視庁があの一件を自殺として発表した時の私の憤りはとても言葉じゃ表せやしない。

「有り得ないわ!」

捜査一課に乗り込んだ私を伊丹はひどく顔を顰めながら部屋から引きずり出した。

「放して!あんたみたいな下っ端と話したって埒があかないわ!もっと上の    そうよ、刑事部長でも出して!」
「バ・カ・か、お前は!」

人目につくとまずいとでも思ったのか、彼はわざわざ警視庁の屋上まで私を引っ張っていた。

    あのな、もう捜査は終わったんだ。この一件は片が付いた。お前の出しゃばるところじゃねえ!」
「あんたたち解剖所見読まなかったの?不自然よ、躊躇い痕はないしあんなに深く自分で二度も刺せるはずないじゃない!それに私、事件の前の晩にと会ったんだから!いつもと何の変わりもなかった!」
「分かった、分かったから」
「あんたたち、何にも分かってない!」

適当に子供でも宥めるような口調の伊丹を睨み付けて私は声を荒げた。

「いいわよ!あんたたちが片付ける前に    杉下さんに頼むから!」

途端に彼はあからさまに嫌そうな顔をしたが、私はそれを無視してくるりと踵を返し走り出した。慌てた様子で伊丹が追いかけてくる。
屋上から中へと通じる扉を勢いよく閉めると、ドンという音と同時に彼の間の抜けた悲鳴がドア越しに聞こえてきた。
捜査一課の部屋に戻ってきた伊丹はひどく落ち着かない様子だった。いち早くそれを察知した芹沢が彼のもとに飛んでいく。

「先輩、どしたんすか?さっきの、監察医の先生っすよね?何かあったんすか?」
「……厄介なことになった」

眉間により一層のしわを寄せて伊丹が呻く。芹沢は目を瞬かせながら不思議そうな顔をした。

「何が厄介なんすか?」

伊丹は苛々と頭を掻いた。この落ち着きのなさは尋常じゃない。芹沢は、ある意味今のこの人の状態こそが厄介だと胸中で呟いた。
口にするのもおぞましいと言わんばかりの口調で伊丹はぼやいた。

    東京湾の女の自殺の一件で、あのバカが特命なんぞにまた余計な茶々入れさせようとしてるらしい……くそ、あのバカが」

あのバカ?先生は医大を首席で卒業した監察医のスーパースターとも言われているような存在なのに、それをバカ呼ばわり?いや、絶対に先輩の方が数億光年バカっすから。無論そんなことを口に出来るはずもないが。

芹沢は軽く言った。

「でもいくら先生が何言っても、もう自殺で送検することに決まったんすから放っとけばいいじゃないっすか」

だが伊丹のしかめっ面は少しも和らがなかった。何だかとてつもなく、嫌な予感がする。
伊丹はいきなり傍らのデスクに握った拳を振り下ろしくるりと踵を返した。

「せ、先輩!どこ行くんすか!」

目を丸くして声をあげる。伊丹は「亀のところだ」と吐き捨てて部屋を飛び出していった。やっぱり何か    普通でない何かが間違いなく起こっている。
どこから湧いて出たのか、気付くと湯気の立つコーヒーをすする三浦が隣に立っている。芹沢は首を傾げながら訊ねた。

「今の先輩、何かおかしくなかったっすか?いつもより格段に」

すると三浦は口角を上げて溜め息雑じりにニヤリと笑った。

    まぁ、おかしくもなるだろう。先生、伊丹のコレだからな」

そう言って三浦が右手の小指を軽く立てるのを見て、芹沢は「え!」と悲鳴にも近い絶叫をあげた。
警視庁特命係が動き出した。    もっとも、杉下さんはうちの解剖所見や鑑識の証拠物を見て、既にの『自殺』に疑問を持っていたらしいが。

「え、あのさんって、先生の親友だったんすか!」

杉下さんの相棒、亀山君が素っ頓狂な声をあげる。二人は以前も捜査で何度かうちの研究室を訪れていた。杉下さんの奇抜な発想と亀山君との絶妙のコンビネーションが強く印象に残っている。
亀山君、と杉下さんが静かにたしなめる。申し訳なさそうに顔を歪める亀山君を見て私は軽く首を振った。

「構いませんよ、杉下さん。ええ、彼女は私の……大切な友人でした」

ティーパックですけど、と告げて二人に紅茶を差し出す。杉下さんは恐れ入りますと言って穏やかに笑んだ。
二人の向かいに腰掛けて紅茶の中に砂糖を軽く混ぜる。亀山君は淹れ立ての紅茶で舌を焼いたようだった。小さく苦笑する。

「私も彼女も忙しい日が多いんですけど、それでも週に一度は飲みに行くようにしていたんです。事件の前の晩も、私……彼女と、いつもの店に行きました。あの日だっては、いつもと何の変わりもなくて……それなのに」

俯いて黙り込んだ私を見て、二人は私が泣いたと勘違いしたのだろう。しばらく研究室には重苦しい沈黙が流れた。
顔を上げ紅茶を一口飲むと、杉下さんが静かに言った。

「解剖所見を拝見させて頂きました。先生はいくつかさんの死について疑問を持たれたようですね」
「え、ええ……」

私はカップをテーブルに置き膝の上で手を組んだ。もうだいぶ経つが、刑事として尊敬している杉下さんに先生などと呼ばれると未だにむず痒い。

「……なぜ捜一が自殺なんて断定したのか理解できません。通常自殺する人間は腹部に刃物を当てた際に躊躇い痕ができます。それは全くなかったし、使用されたナイフは刃渡り十三センチ、でも刺し傷は…」

そこで一瞬息が詰まった。大丈夫すか?と亀山君が顔を覗き込んでくる。私は平気よと告げて続けた。

「……でも刺し傷の深さは十四センチ、それが二回もですよ?そんなに強く自分で……刺せるはずが……」
「確かに、それは妙ですね」

二人は捜査一課が自殺と断定した要因をいくつか教えてくれた。捜査上でに恨みを持つ人物が浮上しなかったこと、彼女は職場で将来に関して不安を抱えていたと友人に漏らしていたこと。
そんなこと、知らなかった。にそんな悩みがあったこと。私、知らなかった。
本当は私、彼女のことを何一つ知らなかったのかもしれない。

特命係の二人はそれから間もなく帰っていった。助手も出ているこの空っぽの研究室がとても色褪せたものに見えた。
今までずっと何をしてきたんだろう。
監察医になって、色んな遺体と向き合ってきた。
でも大切な友人一人守れなくて。
彼女が自分で命を絶ったなんてバカな結論が導き出されるのを黙って見ているしかないのか。
何か。何か見落としていることはないだろうか。
が家族に引き取られる前に、もう一度。向き合って。

私が杉下さんと亀山君の使ったカップを片付けている時、研究室の扉が開いた。
振り返らずに口を開く。助手だと思った。

「お帰り、早かったのね。ちょうど良かったわ、一段落したらこれからまた    

振り向いた私は目を見開いた。
扉のこちら側に立っていたのは、くたびれたスーツに仏頂面の伊丹憲一。眉間には相変わらずのしわを寄せて。

「これからまた    何か余計なことでもしてくれるのか?あぁ?」

私はしばらく身動きがとれなかったが、すぐに洗い場に向き直り残っていたティースプーンをサッと洗った。

「私が何をしようとあなたには関係のないことだと思いますが?伊丹刑事?」
「そういうことは捜査に余計な首を突っ込まずになってから言え。特命を煽るような真似しやがって」

私は無視して壁にかかったタオルで濡れた手を拭いた。それからすぐに側に用意してあるハンドクリームを両手に塗り込む。伊丹は苛々した様子でこちらにズカズカと歩み寄ってきた。

「大体な、お前自殺じゃねえっつーなら証拠見せろよ、お前がしっかり証拠見つけてくりゃ文句だって言わねえよ。でも躊躇い痕がないだとかあんなに深く刺せるはずがないだとか、全部状況証拠ばっかじゃねーか!そんなんでいつまでも引きずってらんねーんだよ俺らはそんなに暇じゃねーんだ!」
    だから」

私は彼に背を向けたまま呟いた。

「だから、決定的な証拠を探そうとしてるんじゃない……だからこれからまた調べようって」
「もう解剖は済んだろう!遺体はあとは遺族に返すだけだろう!私情を捜査に持ち込むんじゃねえ、何度やったって同じだ!」
「現場の経験しかないあんたに何も言われたくないわ!これは私のやり方よ!」

そこでようやく振り返り、私は彼の苛立った目を見返して笑ってやった。

「あんたたちがもっとまともな捜査しないからうちがこんなに躍起になってるんじゃない。むしろ感謝して欲しいわね、私は私の仕事に誇りを持ってる」
「だったら」

彼の目が苛々と細められた。眉間のしわが微かに増える。

    何でお前、泣いてばっかなんだ」

どきりとした。何を、言ってるの。
目を逸らそうとした私の両肩をいきなり伊丹が無造作に掴んだ。

「……私、泣いてなんかいな    
「へえ、そうか?俺にはお前が毎日毎日泣いてるようにしか見えねーが?」

毎日毎日。笑ってきた。何とか。口を歪めて。だって私には、泣いてる暇なんてないもの。の無念を晴らせるのは私しか。だから。それなのに。
この男には全て    お見通しか。バカな。こんな頭すっからかんの短気な野郎に。何だか、素直に笑えた。

私はそのまま伊丹の身体にしがみつき、声を潜めて泣いた。を失って    初めて、涙を流した。
バカが、と彼が呟くのが頭の上で聞こえた。
彼の不器用な手が、乱暴な言葉が。声には出さずに泣き叫んでいた私の胸を全て包み込んでくれた。

彼から少し距離を取った私は、ごめんと呟き彼の肩に手を置いて背伸びした。目を丸くする伊丹の唇に軽くキスを落とす。驚いた顔で硬直する彼の身体にもう一度抱きついて、私は職場だということも忘れてしばらくこの温もりに浸ることにした。
こんなにも温かい胸があるというのに、なぜ今まで気付かなかったのか。
彼は不自然な咳払いをしながら、「お前が泣いてるとこっちまで調子が狂うんだよ」と吐き捨てるように言った。

ようやく身体を離した私を見下ろして、今度は伊丹が腰を屈めて私の唇に歯を引っ込め軽く噛み付いた。学生時代に感じたような胸の高鳴りを数年ぶりに覚えた。

「あー、それから」

研究室の扉を開けた伊丹が振り返りもせずにポツリと言った。

「一週間だけ、待ってやる」

私は意味が分からず眉根を寄せた。

「一週間で証拠あげらんなかったら、容赦なく送検すんぞ」

そして彼はバタンと音を立てて出て行った。私は心から安堵した。そして。感謝の意を。
ありがとう、伊丹。
総力をあげた法医学教室(半ば助教授の半というかむしろ完全強制)と特命係の連携によって、無事殺害の犯人をあげることが出来た。その陰に自分の減俸をかけた捜査一課の一刑事がいたということは実はあまり知られていない。
「先輩、ほんとに先生って先輩の彼女なんすか?」
「はぁ!ンなわけあるか!」
「ですよねー。あんな綺麗で優秀な先生が、先輩の彼女のわけないですよねー」
「うっせーバカが!」
夢から覚めたその後で。
私は大切なものを失ったと同時に、とても愛おしいと思えるものを手に入れた。
comodo (06.02.02) (08.04.18修正)