その女の子は小野田の姿を認めるなり、すぐに右京の後ろへ引っ込んでしまった。
「……杉下。お前に、娘がいたの?」
休日出勤だった。
今では管理体制が厳しくなったために不可能だが、その当時は子連れで出勤する姿がよくあったのだ。
「違いますよ」
小野田の質問は冗談とも本気とも取れず、もっともそれは今も変わらないことだけれど、とかくその質問に対して右京もまたポーカーフェースを崩さなかった。
「この子は、僕の遠縁の親戚です」
自分のデスクのすぐ脇に立つ右京は、そう言ってから身をよじり、彼の後ろに隠れたままの女の子の肩を、さあと促すように右の手で軽く押した。
右京と少女、五十度過ぎの角度で交わす視線。しばらくすると、右京のスラックスを握り締めていた小さな手が緩まり、トコと右足が前に出る。
白いレースの靴下。よく光る黒のエナメル、結んだリボンの上にイミテーションパールを飾ったフォーマル・シューズ。
「小野田さん、はじめまして。杉下のめいの、と言います。
杉下がいつも、おせわになっております」
の年の頃は、小学校、高学年くらい。
しかし、先のの挨拶は、幼稚園児がお遊戯会の時、無理をして難しい言葉を喋った時に似ていた。
「我等、東方の三賢人は、神の御子たる幼子イエスの生誕をお祝いするため、参上したのです。」
先日見た、歳末助け合いの子ども劇を、小野田はなんとなく思い出した。語尾の「です」が、上がり調子なのだ。それに似ている。
「はい、はじめまして。ちゃん。
僕は杉下の友達の、小野田です。
偉いですね、上手にご挨拶が出来て」
「は、躾が行き届いていますから」
小さなに視線を合わせてしゃがみ込み、小野田がそう挨拶を返してやると、すかさず右京がそれを拾った。
右京と小野田、五十度過ぎの角度で交わす視線、右京はどこか得意気だった。
「ふうん……杉下、お前に良く似ているよ」
身に美しくと書いて、躾。なるほどと、小野田は一人で薄く笑う。
「ちゃん、おじさんの娘がねぇ、もうじき出産するんですよ。
僕の初孫です。女の子なら、君のような面白い娘に育てたいですねぇ」
「……はぁ」
小野田の言葉に、は目をきょろりとさせ、子どもながらに曖昧な笑みを浮かべると、さっと右京の方へ視線をやった。
「何か用が?
あなたがわざわざ出向いてくるなんて、只事ではありませんが」
その視線を受け取った右京がやった助け舟に小野田は、ああそうだ、といった風に顔を改め、姿勢を戻して小脇に抱えていたファイルを右京へ差し出す。
「お前にね、この仕事を頼みたいんだけど」
ファイルを受け取ると、右京はそれに綴じた書類を上から順にさっと目を通す。はというと、眼鏡の奥で忙しなく左右に動く右京の目を追っている。
「どれくらいで済むかな?急ぎなんだけど」
そんなを面白そうに見ながら、小野田はそう問いかける。そうですねぇという、右京独特の間延びした返事のあと数秒後、右京の手がパタンとファイルを閉じ、小野田の顔を見据えた。
「二時間も頂ければ」
「そう。休日なのに、悪いね」
「いえいえ。
特別な命令で動くから、特命係と言うのでしょう」
礼を言う小野田もポーカーフェースなら、右京もまたそうで、二人の間に微妙な沈黙が流れているのを、彼等よりも地面に近い場所にいるは感じ取ったようだった。
「おじさま、わたし、おじゃまですか?」
右京の服の裾を引っ張ってそう言うと、小野田はようやく、右京のデスクのすぐ側、長机の上にあるの私物に気付く。
文庫本は、アイザック・アシモフの『ユニオンクラブ奇談』、これは右京の影響だろうか。小学生が読むなら、児童書のシャーロック・ホームズで充分だろうに。
グラスに入ったオレンジジュース、小さく一口サイズにパックされたチョコレート菓子。
そして、ただの外出には立派過ぎる、小さな鞄。
はそれらをちらりと見、ついで壁にかかった時計も見る。時刻は十一時を少し過ぎたところ。
やがて再び交わる、五十度の視線。
「ちゃん。
おじさんと一緒に、食事へ行きませんか」
先制攻撃。
右京の口が開くよりも先にそう言ってやると、右京が渋るのも聞かず、は小野田の手を取った。
−−−−−−−−−−−−−−−
「さて、ちゃん。何が食べたいかな」
直進用の信号が赤に変わり、右折用の指示信号に青いランプが灯る。車はゆっくりと右へハンドルを切る。
「……小野田さんのお好きなもので」
「いけませんね、子どもが遠慮しないの」
飽くまでもスムーズな運転、その僅かに感じる重力や振動を感じながら、小野田は彼の隣、助手席側の後部座席に座るの顔を見、嗜めるようにそう言った。
「私ももう、子どもじゃないですよ、小野田官房長官」
「僕から見たら充分、子どもですよ。
それに、そんな呼び方は止してほしいな」
紺のジーンズと、素足に履いた濃い赤色のオープントゥ・パンプス。爪に塗った桜色のマニキュア。
今は遠いあの日、夜は親戚一同でのお食事会だとめかしこんでいた女の子が、と思わずにいられないのは、やはり自分が老いたからだろうか。なにせもう、『おじさん』ではなく、『じいじ』の年なのだ。
「昔のようにさっきのように、小野田さんで結構ですよ。
僕と君は友達なんだから」
それでも、うら若い女性と、何よりと共に過ごす時くらい、そう思ってしまうのもやはり年のせいだろうか。
小野田の言葉に、は笑う。
昔に比べて、笑い声が高く、そしてどこか、良い意味で明るくなった。
「小野田さん。私、本当にどこへだって良いんです。
久しぶりに小野田さんとお食事するの、本当に楽しみで」
友達という関係を、先に取り付けたのは他ならぬ自分。
ちゃんと杉下が友達。僕と杉下が友達。友達の友達です。
いつの間にか、一つ飛び越えてしまった関係性だけれど、他の誰かでは代用できない、この距離が丁度良かった。
「そうね、お寿司なんかどうかしら?」
横にちらりと流す視線。
もう子どもではないから、目線は合わせない。
もう子どもではないから、手は握らない。
もう子どもではないけれど、変わらない関係。
「はい、喜んで。……あ、でも」
言って、は小野田の顔をじっと見、やおらくすくすと笑いだす。
誰とも言わず、若い娘の笑顔というのは良いものだ。見ている自分でさえも、どこか明るくなれる。
言葉の続き待つ小野田の思惑など露知らず、は笑いながら、また視線を送る。昔とは違う角度で。
「また、嘘を教えないで下さいね。
私あの後、おじ様に叱られちゃいました」
小野田さん、食べおわったお皿は、どうするの?
遠いあの日、自分が幼いについた嘘。結果的な嘘。
「あの杉下が君を叱るなんて、あり得ないでしょう。
全く、ちゃんは面白い子になったね」
いたずらっ子のように微笑むへ手を伸ばし、くしゃりと撫ぜる髪の柔らかさ。かすかなシャンプーの匂いを嗅げるのは、友達の友達、その特権。
−−−−−−−−−−−−−−−
この度は素敵な企画に参加させていただき、ありがとうございました!二度目ですが、劇場版公開ということで勢い余っての空まわりです。
実際にお寿司を食べに行くシーンもありましたが、うまく纏められず削りました。機会があれば今度こそっ
080521.胡村ゆつる拝