ちゃちなプラスチック製のフォークは、スコーンに刺さる事無く皿に着地した。
何度やっても、皿の中でスコーンが不自然に踊ってしまう。刹那短気を起こして少々乱暴にフォークを突き立てると、スコーンが信じられないくらいの勢いで宙を舞った。ぼとり、と嫌な音を立てて足元に落ちたスコーンを、は顔を赤らめながら素早くペーパーナプキンで掬い取った。
席に座り、目だけ動かして周囲を探る。
「…失敗したなぁ」
待ち人は、まだ来ない。
マグカップに両手を添えて、は温かいカフェラテを口に運ぶ。
分厚いガラス一枚隔てた向こうでは、木枯らしともビル風ともつかない風が、歩道を通る人々の忙しなさを扇動しているように見えた。
彼がすぐ自分に気付くように、また自分も彼をいち早く見つけられるようにと、最も外界に近いこの席を選んだ。しかし待ち人・大河内春樹の姿を認める事は出来ない。
肩越しのため息はガラスを仄かに曇らせ、間も無く消える。
携帯で時間を確認しながら、は後悔の念を強めていた。
大河内とは遠縁に当たる。顔を合わせるのは冠婚葬祭や正月ぐらいのものだ。官僚としての大河内を目にしたのは僅かに一度きり。仕立ての良いスーツに黒のロングコートをはためかせて歩く姿は堂に入っていて、思わず見惚れた事をは思い出す。
度々持ち込まれる縁談を苦り切った表情で断る大河内を見る度、どこかほっとしている自分がいた。大人になるというのは得てして不便な事だ。男と女の間に、明確な理由が必要になる。当人のあずかり知らぬ所で余計な算盤勘定の方が気持ちよりも優先されてしまう。
片や日本の治安を掌る警察庁キャリア。
片やしがない派遣OL。
忙しい人だと分かっていながら、何故自分は呼び出したりなどしたのだろう。別に電話でも良かったのではないか。
そんな事を考えていたら、目尻に涙が浮かんできた。
は慌てて鏡を取り出して、アイメイクが崩れないよう細心の注意を払い、ティッシュで拭う。いつもの倍、時間をかけている。大河内が現われもしない内、それを無駄にするのは何だか口惜しい。
鏡を仕舞ったは、ふと視界の端に男の姿を捉えた。
大河内だった。風が鬱陶しいのか眉間に皺を寄せ、先程思い出した官僚の姿でこちらへ歩いて来る。
思わず背筋が伸びた。は弄んでいたティッシュをバッグに突っ込んだ。
大河内は店に入ってすぐに気付いたようだった。
「すまない。待たせたな」
ゆるゆると首を振るを一瞥して、大河内はコートに皺を作らないようゆったりとした動作で向かいの席に腰掛けた。ブルーのポケットチーフがちらりと見える。
「あの、飲み物は」
「いやいい。すぐ戻らないといけない」
「そう」
手間を取らせて申し訳ないと思いつつ、自分との約束を守ってくれて嬉しいとも思う。
は己の単純さを心の中で嘲笑した。
「で、話というのは」
思いがけず、視線がかち合う。
メタルフレームの眼鏡が冷たい印象を与えるけれど、その奥の瞳は優しさを湛えていた。
は思わず、昨日の夜からずっと反芻している言葉ではなく、心に押し込めてきた言葉を言いそうになった。しかしそれでは、この場を設けた意味が無い。
終わらせるのだ。独り相撲をしている場合ではない。私はもう、大人だ。
「結婚することになったの」
は一語一語確かめるように、言葉を紡いだ。
大河内は一瞬気を呑まれたようだったが、口元はすぐ綻び、そうか、と呟く。
「おめでとう、」
「うん。ありがとう」
笑顔を貼り付けながらも、はじっと大河内を見ていた。
この人は嘘偽り無く、心から祝福している。普段表情が乏しいだけに、余計そう感じる。
私は気持ちを偽って結婚しようとしているのに。
マナーモードの振動で、は我に返った。厳しい顔になった大河内が電話に出る。
きっと職場からだろう。戻って来いという事だろう。
自分の知らない大河内春樹を垣間見た気がして、何だか寂しくなった。
「」
ぼんやりガラスの向こうを眺めていたが振り返ると、大河内は既に立ち上がっている。
「行くの?」
「ああ」
じゃあね、と言う前に、大河内は出て行った。
ガラス越しに広い背中を見た瞬間、何故かいたたまれなくなっては立ち上がり、
「好き、でした」
気付いた時にはそう、口走っていた。
しまったと思ったが、ガラス越しの告白など届くはずも無い。
しかしおかしな事が起こった。振り返った大河内が驚いた様子でこちらを見ていたのだ。
タクシーに乗り込む直前の大河内と、立ったままの。
二人は見つめ合った。恐らく一秒にも満たない時間なのに、には酷く長く感じられた。
小さな笑みを残して大河内が車中の人となっても、は動く事が出来ずに立ち尽くす。
聞こえたのだろうか。
最初で最後の、身勝手な告白は。
「…失敗したなぁ」
は無理矢理、泣き顔を苦笑いにした。
(2008/10/13 32・ガラス越しに)
シーズン7放送開始間近、という事で、僭越ながら再び参加させていただきました。
警務部人事第一課主任監察官・ピルイーターこと大河内春樹氏。
…すいません、大好きです(告白)
しえ 拝