「よっ、ひま    
「じゃないですよ、もちろん。そこどいてください!」
 いつものように特命の部屋を覗こうとした矢先、前方が見えなくなるほど大きなダンボールを抱えた誰かが飛び出してきて、あっという間に脇を横切っていった。その後ろ姿をちらりと振り返ってから、ようやくいつもの二人を見つけて小部屋に中に足を踏み入れる。
「なに、また一課の山に首つっこんでるの?」
「いささか興味深い案件でしてね」
「だからって鑑識の新人ちゃんコキ使うのはどうかと思うけどね」
「コキ使うって、失礼な。ちゃんは自ら進んで俺たちに協力してくれてるんです」
「どーだか。一体どんな入れ知恵したの?」
「だからしてませんってば」
 いちいち真顔で反論してくる亀山に、涼しい顔で紅茶を注ぐ杉下。まったくもって、いつもの光景。
 そしていつものように特命のポットから温かいコーヒーを入れていると、突然背後からけたたましい悲鳴があがって彼は飛び上がった。振り向くと、先ほどすれ違ったばかりの若い鑑識係がやはり抱えたダンボールの横から怒った顔をつき出して杉下を睨みつけている。
「警部!そういえば一昨日お借りしたテープなんですが先月の公演じゃなくて一年前のが入ってましたよ。もう、渡す前にちゃんと確認してください!」
「おや、それはそれは失礼をしました。では明日にでも確認して大阪公演のものをお持ちします」
「ぜひお願いします。ほんとーうに楽しみにしてたんですから!米沢さんもいないし、私がこれだけのものを調べるのにどれだけ尽力してるかお分かりですか?」
「本当に失礼をしました。さんには心から感謝していますよ」
「それは非常にありがたいですけど取り決めはきちんと守っていただきます。私だって暇ではないし立場というものもありますから。それでは」
 早口に捲くし立ててぷいと去っていくその後ろ姿が見えなくなってから、彼は嘆息混じりに肩を竦めた。
「なーにが進んで協力してくれてる、だ。やっぱり取り引きしてんだろーに」
「いやー、まいったよ。まさか定期健診で引っかかるなんてね」
「だから言ったじゃないですか。もうちょっと痩せなきゃ身体によくないって」
「そうはいってもね、知ってるだろう?僕が身体動かすのは苦手だって」
「そんなことじゃこの過酷な職場でやってけないじゃないですか。米沢さんは立派な鑑識なんだから、体力ないはずないんです」
「そうかな、ははは。そういえば杉下警部はどうしてる?」
 杉下警部。その名を聞いて、思わず眉間にしわを寄せて窓の外に沈む橙の空を見つめる。この病室からは、夕焼けがよく見えた。
「あの人、人遣いが荒いです。私だって暇じゃないのに」
「はは、でもすごい人だよ、杉下警部は。寄席のテープも約束通り貸してくれるだろう?」
「当たり前です。本来私たち鑑識課は特命係に協力する義務なんてありません。ただ働きなんてするわけないじゃないですか」
 身体を起こしたベッドの上でどこか楽しげに微笑む米沢さんを見て、釈然としないものを感じて口を開く。
「何で特命に協力してやってくれなんておっしゃったんですか?そりゃあ、杉下警部のすごいことは認めます。だけどあの人のやってることは組織の規律に反してますよね。それを進んで後押しするような……私は、そんなこと、」
「いや?」
 訊いてきた米沢さんの瞳から、うっすらと笑みが引いていた。怒っているわけでは、なさそうだけれど。
 今度は米沢さんが窓の外に視線を移し、含みを持たせる声で囁いた。
「君にも……分かるんじゃないかな。組織に属しながらも、その歯車に取り込まれることへの恐怖。このままでいいのか、僕は本当にこのままでいいんだろうか」
「……それを、特命の二人に託してるってことですか?」
「それは分からないけど―――ただ上に従うだけの人間には、なりたくないのかな」
 ただ上に従うだけの、……。

「はやく、かえってきてください」

 無意識に飛び出した言葉は米沢さんを振り向かせ、自分の頬までもを途端に火照らせた。膝の上で握った拳をひたすらに見つめながら、消え入りそうな声で呟く。
「……米沢さんがいないと、忙しすぎて今度は私が倒れそうです」
 にこりと微笑んだ米沢さんは、いつもとまったく変わらなくて。
 あなたの胸の奥に、大切な人がいるの、知ってる。
 届かない。過去は遠く、去ればそれだけより一層に美しい。

 にどと、かえってこなくていいよ。だけど。

 最後にもう一度だけ、あのカウンターで、あなたのすきなモンブランを。