「浅倉さーん!」
「 はい、これ。美和子さんから」
「ああ、ありがとう」
浅倉さんはそう言って、私の手からA4のファイルを受け取った。中には美和子さんから預かっていたプリントが数枚入っている。彼は中身を確認してから、にこりと笑ってもう一度ありがとうと言った。
「まったく……自分で持ってこいっていうんだよな、あいつは。後輩をパシリに使うなんて」
「仕方ないですよ。美和子さん、今週はゼミで大忙しだそうです」
「それは分かってるんだけどさ」
彼は非難がましい表情を作って虚空を見上げ、やがてふらりと巡らすようにして首だけでこちらを向いた。少し距離をとって隣に腰を下ろした私と自然と目が合ってから、ほとんど同時に噴き出して笑う。
声をあげて笑う浅倉さんの、斜め前から見つめる顔がとても好きだった。
「さっきも発表の準備がまだできてないとかで、印刷室との間、短距離の選手みたいに猛ダッシュしてました」
「……自業自得だな。昨日、ハメ外して飲みまくってたくせに」
「あ、あれは浅倉さんたちのせいだって怒ってましたよ、美和子さん」
「なにを……ひとりで三本も空けたのはあいつの意思だろう」
「なんで止めてくれなかったんだー友達甲斐のないやつらめーって」
「……よく言うよ。止めてくれるなそれでも仲間かーって大暴れしてたんだぞ、あいつは」
「そこを心を鬼にして止めてくれるのが真の友達だそうです」
「あーそうか。よーく分かった。次から是非ともそうしてやろう」
楽しげに微笑む浅倉さんの顔を見て、自分もくすくす笑いながら、私は膝下のスカートを押さえつけてぐっと足を伸ばした。キャンパス内の少し小高いところにあるこの芝生は、授業の空き時間に学生たちが集まる憩いの場だった。だが今は人影も疎らで、私はそのまま上半身を後ろに倒してごろりと仰向けに横たわる。大きな銀杏の木の根元に背を預けた浅倉さんは、そんな私を見下ろしてまた笑う。
「服が汚れますよ、お嬢さん」
「そんなの払えば済むことですからー」
おかしそうに声を立てて笑いながら、浅倉さんは私に声をかけられてから閉じた本を、再び膝の上で開いて読み始めた。口元が微かに笑みをたたえて曲線を描くのを見るのが、好き。細められたその眼が一点を見つめる眼差しが、好き。
「……うらやましいなぁ」
「ん?」
不思議そうな顔をして、浅倉さんがこちらを見下ろした。お腹の上で両手を組んで、ゆっくりと呼吸しながら囁く。
「浅倉さんと亀山さんと美和子さん。とっても仲良しで」
「そうか?まぁ、亀山が奥寺と付き合い始めたからな。ほんと、見てて飽きないぜ。あの二人は」
「いいなぁ……美和子さん」
「え?ひょっとして、亀山のこと好きだった?」
「ちっ、違いますよ!そういう意味じゃなくて!」
思わず声を荒げて飛び上がると、目を丸くした浅倉さんはすぐにお腹を抱えて笑い出した。私は耳まで真っ赤になって、「だから違いますってば!」と怒鳴りつけるように繰り返す。分かった分かったといって、浅倉さんはぽんぽんと私の頭を叩いた。もう……いつまでも、子供扱いばかりして!
「ほんとに、そういうんじゃなくて!ただ……私、浅倉さんたちみたいに、心を許して話し合える人って。いなくって」
「………」
「だから、うらやましかったんです。美和子さんたちみたいに、何でも話せて、かといって踏み込みすぎないで、でも必要なときは傍にいる……そんな、浅倉さんたちの関係が すごく、うらやましかったんです。だから……」
向き合った浅倉さんの顔がいつになく読み取れない表情をしていたので、私は自分が余計なことをしゃべってしまったと気付いてますます頬を赤く染めた。どうしよう……なに、言ってるんだ。いきなりこんなわけの分からないことを聞かされて、さぞや鬱陶しい後輩だろうな……。
浅倉さんの顔を見ていられなくて、下を向く。そこへはらりと一枚の銀杏の葉が落ちてきたとき、浅倉さんの軽快な声がした。同時に、また頭の上にぽんと軽い手のひらが降ってくる。
「 なーに知ったようなこと言ってるんだよ、お子様が」
「おっ……私、もうハタチになりました!」
「知ってるよ。でもそんなくだらないこと言ってるうちは所詮まだまだお子様だっての」
慎重にセットしてきた髪をぐしゃぐしゃに掻き乱されて、私は大声で喚きながら浅倉さんを睨み付けた。浅倉さんはけらけら笑いながら、「そっちの方が似合ってる」とうそぶく。私は必死に髪の毛を直しながらも、今度は無造作ヘアでいってみようかな……なんて、柄にもなく考えた。
木の幹の方にまた身体を戻して、浅倉さんは悠然と青く澄んだ空を仰ぎ見る。
「 なんでも話せるわけじゃないさ。当然、秘密だってある」
それでも、といって、浅倉さんは膝の上で本を広げたままそっと目を閉じた。
「それでも一緒にいたいと思える仲間を見つけられたっていうことは……それなりに、価値のあることなんだろうな」
それはまるで、吐息のような囁きではあったが。
私はもう少しだけ浅倉さんの方へと近寄って、彼と同じ銀杏の木に凭れかかって同じように目を閉じた。木々の微かな声がする。風の流れる匂い。
隣に、浅倉さんがいるということ。
薄く瞼を開けて、盗み見るように彼の横顔を眺める。目を瞑ったままの彼は、本当に眠っているのかもしれない。少し上を向いているためにいつもより覗いた喉が、規則的に上下して確かに息をしていた。いつの間にやら彼の膝の上に落ちていた銀杏の葉を、そっと手を伸ばして掴み取る。
結局、私がこの思いを、彼に伝えることはなかったけれど。
確かにあのとき感じた気持ちは この銀杏のしおりとともに、ずっと。