私、杉下が持つ最古の記憶は、桜の木の根元で泣いている自分でした。季節はよく覚えていませんが、夕暮れ時だというのに暑さ寒さを感じた覚えがないので、秋ではないかと推測しています。
 春ではないと、確信していました。何故ならば、私が泣いていた桜の木は、花をつけていませんでしたし、桜の剪定に春は不都合だと、素人の私でも感じています。



ですか。あの子、庭で泣いているんです。
 あの子に黙って桜の木を切ったのが、ショックだったみたいで」



 夕食の匂いと一緒に、台所にいるはずの姉の声が、私の耳に届きました。姉の言うとおり、このとき幼い私は、大変なショックを受けていました。



「でも、あの場所が悪いから、仕方なかったんですよ。
 ほら、あの桜、牡丹園の真横にあるでしょう。
 枝のせいで、牡丹に日が当たらなくて。良く育たなくて、それで」



 姉が誰に向かって話しているのかは、分かりませんでした。ただ姉は、私にしてくれたのと同じ説明をやっているようでした。私と年の離れたこの姉は、まだ義務教育課程にある就学児の癖に、大人のような喋り方、考え方をしました。いつもは大好きな姉でしたが、そのことが今日は憎らしいと思ったものです。

 小さな私は鼻を啜りながら、膝に埋めていた顔を上げて、桜の木を見上げました。そうしたのは、何度目か分かりませんでした。桜の木は、私よりはるかに背が高く、立派な巨木でした。
 ですが昨日、いいえ、今朝まで、逞しく縦横に四肢を伸ばしていた桜の枝は、今やその三分の一を失っていました。

 切られた枝。
 残虐の名残を示すかのように、散った木の葉が、そこら中に散らばっていました。

 無残に見えるその姿でしたが、本当は腕のいい庭師さんに頼んだだけあって、必要最低限の枝だけを切り、来年も変らず元気にあるようにと処置されていることを、私はちゃんと分かっていました。
 この残虐が、姉の言うとおり、桜の真横にある牡丹園を守るため、仕方なく行われたということも、幼心ながら分かっていました。

 桜を切った姉や家族に、罪はありません。勿論、完璧な仕事をしてくれた庭師さんにも、罪はありません。牡丹は尚更、無罪でした。牡丹も桜同様、小さな私が愛して止まない花でありました。
 しかし、やはり木を切るということには、心痛むものがあります。生きながら、鋸でギコギコと切られてしまったであろう枝たちのことを想像します。痛い痛いと泣いています。そうすると、私はまた、涙がこみ上げてくるのを感じるのでした。
 涙で霞む視界の中、切られた桜の枝の断面が生々しく、それは私に悲痛な叫びを訴えているようにさえ、感じました。

 姉や家族達は、めそめそと泣いている私を扱いかねて、もう放って置いています。少し前までは、時々様子を見に来ては、私に事情を説明したのですが、私は理由なんかどうだって良かったのです。
 ただ、私は悲しいのでした。悲しみたいのでした。だって、桜が私に、痛いと泣きついて来るのです。それならば、私だって桜と一緒になって、痛いと泣いてあげなければ、可愛そうです。
 桜が可愛そうです。私も可愛そうです。
 だって、私も桜も、寂しいのです。私はこの桜が、私の庭のあらゆる草花の中で、一等好きでした。



「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」



 それは、男の人の声でした。
 私が何度目か分からない、こみ上げてくるものを、ぶわっと目から溢れさせそうになった時、男の人の声が聞こえました。



「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿。
 こんな諺がありますが、ご存知でしたか」



 驚いて涙を飲んだ私は、膝から顔を上げました。目の前に、知らない男に人が立っていました。
 真っ赤に腫れた目で、その男の人を見ると、彼はにこりと笑いました。私に、諺を知っているかと尋ねているのです。
 彼は、私の父と同じ年くらいの、男の人でした。



「しりません」



 私がそう答えると、男の人は手を後ろで組んだまま、うんと満足そうに頷きました。そして、私から目を逸らして、桜の木を見上げました。



「桜は、切るとそこから腐って枯れてしまうので、切らない方が良い。という教えです。
 また、梅は切らずにいると、枝が伸びすぎて樹形が乱れ、
 花が咲かなくなるという教えでもあります。
 梅は実をとるので、花が咲かないと困りますからねえ」



 男の人は、独り言のようにそう言うと、今度は私の目の前にしゃがみこんで、私と視線を合わせてくれました。
 私は男の人が誰か、知りたいと思っていました。知らない人とは口を聞いてはいけないと、私は姉をはじめ、家族中からずっと言われてきたのです。
 でも、男の人は私が口を挟む隙を、与えませんでした。彼はすっと人差し指を一本立てて、私に言います。



「ところが、桜の木は絶対に切ってはいけないのかと言うと、
 そんなことは無いんですねえ。こういう諺があるので絶対切ってはいけないと、
 信じている方が多いようですが、しかしそんなことはありません。
 桜の性質に添って剪定すれば、かえって、生き生きとするのです。
 この諺は、それぞれの木にあった手入れをしなさいという、
 格言みたいなものなんですよ」



 そこまで聞いて、小さな私は理解しました。この名も知らぬ男の人は、私に虐殺の理由を説明して、慰めているのだと。



「そんなこと、おねえちゃんから、ききました」



 私はきっと、男の人を睨んでいたと思います。兎のように赤い目で、私は鼻を啜り上げながら、男の人に答えました。



「ぼたんのために、きったって。さくらのために、きったって。
 そんなこと、も、わかります。
 でも、は、きったの、いやです」



 大人と言うのは、どうしてこうも、屁理屈を言いたがるのでしょう。私は理由なんかどうだって良いのです。

 ただ、私は悲しいのでした。悲しみたいのでした。だって、桜が私に、痛いと泣きついて来るのです。それならば、私だって桜と一緒になって、痛いと泣いてあげなければ、可愛そうです。
 桜が可愛そうです。私も可愛そうです。
 だって、私も桜も、寂しいのです。私はこの桜が、私の庭のあらゆる草花の中で、一等好きでした。どうしてこれが、大人には、分からないのでしょう。



「おやおや、そうでしたか。これは大変失礼しました」



 男の人は、そう言って私にぺこりと頭を下げます。謝っているつもりでしょうが、顔がちっとも、謝っていません。
 こうなっては、きっと彼も、私を放って置くでしょう。別に、それで良いのです。私は寂しくて、悲しみたいのですから。
 でも、男の人は私を放って置きませんでした。



「それでは、今は桜のために、泣いておあげなさい。
 あなたが泣けば、桜も寂しさが晴れるでしょう、さん」



 男の人は、そう言って私の横に、腰を下ろしてくれました。私が満足するまで、ずっと寄り添っていてくれました。
 頭を撫でてくれたり、肩を抱いたり、私の機嫌をとることはしませんでした。ただ、私の寂しさを共有してくれました。

 これが私、杉下の初恋でした。男の人の名前は、杉下右京といいます。
 そして、私の初恋は、現在進行系なのでありました。





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「あれー?右京さん、今日は随分と早くないですか」



 気に入りのカップを洗い終えた杉下右京を見て、亀山薫は不思議そうに声をかけた。カップを拭きながら、右京はやれやれと心の中で溜息をつく。亀山君にさえ、分かってしまうなんて、今日の僕は相当、落ち着きがないようです、と。
 特命係は、事件を抱えていない日、定時退勤が常だった。要するにやることがないので、右京も亀山も、毎日定時きっかりに退勤する。
 しかしその日の右京は、やはりどこか浮かれていたのだろうか、帰宅の段取りがいつもより早いことを、亀山に見抜かれてしまった。



「ええ。今日は、人と会う約束をしていますから」



 いつもどおり、なんでもない顔をして、右京が答える。亀山は約束と口の中で小さく呟くと、すぐに、にやにやと笑みを浮かべはじめた。



「へー、珍しいですね。右京さんにアフターファイブがあるなんて」

「おや。君は僕のことを、なんだと思っているんですか」

「いえいえっ、特に深い意味はありませんって」



 深い意味はないと言っておきながら、亀山はしっかりと、深い意味のある目で右京を見る。
 こういうとき、亀山の言いたいことを、右京はしっかり予測できる。できるからこそ、早々にこの場を立ち去らねばならなかった。



「……誰っすか?」

「聞いてどうするんです」

「いや、だって、相当ウキウキしてますよ、右京さん」



 そのとき丁度都合よく、定時を告げる時計の音。右京はこれ幸いとばかりに、そうですかねえ、などと煙に巻きながら、てきぱきと帰宅の準備を進める。
 退勤簿に判を押し、角田課長には、お先に失礼、と挨拶を。



「ちょ、ちょと待って下さいよ、右京さーん!」



 鞄を持って職場を去った右京を、ドタバタと亀山君が追っくるが、右京は振り返らない。
 廊下の窓から、ぐるりと広がる東京の街並みが見えた。灰色のビル郡。時々交じるピンク色は、桜の木。それは右京に、懐かしい人の声と顔とを思い出させる。



「何か?」



 亀山を無視するのもためらわれ、右京はすぐ真後ろにいる亀山と、その顔を見ずに話を進めた。



「いや、だからあの、待ち合わせって誰とかなーって」

「それは、僕のプライベートです」

「そんな水臭い。
 まさか、小野田官房長官じゃないですよね?そんなにウキウキして」

「ええ。確かに、彼ではありませんねえ」

「でもって、たまきさんとも違いますよね?
 誰かなー、右京さんをこんなにソワソワさせる人は」

「さあ。誰でしょうねえ……」



 細かいところに固執するのは右京の悪い癖だったが、亀山にもそれが時々見受けられるので、困る。エレベーターを降りて、競歩のような速さで歩く右京の後ろを、亀山はまだくっついてくる。
 表情を崩さずに、右京は尋ねた。



「亀山君?
 君はまさか、僕の待ち合わせまで、付いてくる気ですか」

「いや、そんなことはしませんけどね。
 ただ、気になるなーっと……ねえ、右京さん、まさかとは思いますけど」

「はい?」



 まさかという言葉に、右京は亀山の方へと振り返る。警視庁のエントランスの中心。
 亀山は春だというのに、相変わらずお気に入りのフライトジャケットを着込んでいた。右京も年中、ぴっしりとスリーピース・スーツで決めているので、人のことは言えないが、暑くないのだろうか。
 亀山は頭をガシガシと掻きながら、何か言いたげな表情。
 何か、と右京が促してやると、顔にバツの悪そうな笑みを浮かべながら、亀山はようやく続く言葉を吐いた。



「そのー、まさか右京さん……
 まさか、女性と待ち合わせ、なんてことは」

「おじさまっ!!」



 そのとき、右京が感じたものは、背中を中心とした体全体への衝撃。それは柔らかく、暖かな衝撃。微かに花の匂いがしたのは、香水だろうか。



「おじさま、おじさまっ、お久しぶりです!」



 右京が振り返った先、その背中に張り付いていたのは、案の定、右京が推測したとおりの人物。
 成人前のその少女は、右京にとっても、亀山にとっても、見覚えのある顔立ちをしている。
 呆気にとられたままの右京と亀山に、少女はしゅんと不安げな顔になる。右京に抱きついていた腕の力が緩まった。



「右京おじさま……?あの、私です、です」



 憶えて、ませんか?
 心配そうに尋ねるを、まさか右京が忘れているわけがない。右京は勿論憶えていますよ、と優しく答えると、動きが止まっていた亀山に向き直り、コホンと一つ咳払い。



「亀山君。僕の姪の、杉下です」



 君が散々知りたがっていた、僕の今日の待ち合わせの相手です。
 そう言ってやると、亀山はようやく硬直を解いた。ああーっと納得したように、何度も頷き、手を叩く。



ちゃん?えーっと、姪って言うと、花ちゃんの?」

「ええ、彼女の妹です」



 年は少し、離れていますがね。
 右京の言葉を聞きながら亀山は、二人に向かって姿勢を正したをじっと見た。
 大学生くらいだろうか。顔立ちが花に似て、利発そうな顔をしている。服装は、とっておきの外出着といった所で、膝丈のワンピースにボレロという組み合わせが、清楚で落ち着いて見えた。
 右京にいきなり飛びついてきたときは、まさかと思ったが、花の妹というなら、納得できる。欧米暮らしが長いせいか、花もアクションがオーバーだった。



「亀山薫巡査部長」



 に突然、改まった名を呼ばれて、亀山はハッとを見る。
 お互い、初対面だ。花か右京から、自分のことを聞いていたのだろうか。
 亀山を前にして、はにこりと微笑み、頭を下げた。角度は、美しい四十五度。耳にかけた横髪が、さらりと頬で揺れる。



「杉下です。先日は、姉がお世話になりました」



 何人にも礼儀正しいのは、杉下家共通のDNAらしい。年若く娘盛りのに、亀山はほにゃりと顔を崩すと、自己紹介をし握手を交わした。
 杉下。右京の姪、花の妹。滅多に会うことの無いだろう人物に、俄然、亀山の興味が湧いた。
 ここへ何をしに来たのだろう。どんな娘だろう。花の妹というが、やはり彼女と同じく、アメリカ暮らしなのだろうか。そして、ハーバード大だったりして。また、家系関係の話で揉めると嫌だな。



「待ち合わせは、駅でしたね。
 どうして、ここにいるんですか」



 しかし、亀山がその質問を口にする前に、出し抜けに右京の声が割って入る。右京の質問に、はきょろりと、悪戯っぽい目をしてみせた。



「早く着きすぎてしまって。
 それに、警視庁って、一度見てみたかったんです」

ちゃん、警視庁ははじめて?」

「はい。というより、東京が初めてです」



 人がたくさんいて、ドキドキしちゃいました。
 そう言って笑うの素朴さに、亀山は親近感を覚える。



「そうだよねえ、分かるよー、東京は人が多い!
 えーっと、ちゃんはどこに住んでたの?」



 亀山も上京してしばらくは、東京の人の多さに驚いたものだ。朝もなく夜もなく、街には毎日毎時、祭りかと思うほどの人で溢れている。
 自分は、エリートな右京や花よりも、この娘の方が気が合うかもしれない。
 そんな風に思っていた亀山に、はえへへと恥ずかしそうに笑った。



「イギリスです。高校時代はあっちで留学をしてて」



 やはり杉下一族のDNAか。くじけそうになる自分をなんとか奮い起こして、亀山は尚も続ける。



「へ、へえ!そっか、イギリスは人が少ないんだ!
 ……ちなみに、花ちゃんみたいに、君もハーバード大学?」

「いえ、私は、あの……」

「そうだよねえ、皆がハーバードに行けるなんて」

「亀山君。彼女は、東京大学法学部ですよ。僕と同じです」



 やはり杉下一族のDNA。亀山はがくりと肩を落とした。
 別にコンプレックスなワケでもないし、権力に弱いわけでもないが、スポーツ特待生で大学へ進んだ亀山は、インテリに弱い。
 代表例は、杉下右京。かけがえのない相棒だが、いつも勝てない。



「それにしても、驚きました。
 あなたは随分と、綺麗になりましたねえ」



 こっそりと内心しょげている亀山には気にも留めず、右京はへと向き直る。

「だって、おじさま、二年ぶりですもの」



 がこの春から東京の大学へ進むことになったと聞き、東京見物がてら、今日の約束を交わした。
 もともと遠縁の親戚だから、盆暮正月くらいにしか顔を合わさないが、季節の挨拶やメールなどで、頻繁に交流を行っていた。
 しかし、成長期の少年少女の、ほんの少し目を離した隙の変貌というものには、目を見張るものがある。
 を幼い頃から知っている右京は、その成長がしばらく馴染みにくく、そしていつもくすぐったい。



「おじさま。
 これから桜、見に連れて行って下さるんですよね?」

「桜?ちゃん、せっかく東京へ来たのに、お花見に行くの?」

「はいっ!
 だって、どうせこの春から東京暮らしですから。
 東京タワーとか雷門とか、いつでも見れるでしょ?」



 いつの日だったか、桜の木の下で寂しいと泣いていた少女が、もう大学生になる。
 父親の感慨にも似た感情が、この約束を結んだ時から、右京の心中を巡っていた。右京自身に子どもがいれば、ぎりぎりでくらいの年齢になっているからだろうか。
 おじさまおじさまと、会うたびに人懐っこく笑い寄って来るには、その姉である花へとはまた違った感情をいつも抱く。この気持ちは、肉親への愛情だろうか。



「……さあ、では行きましょうか。お花見へ」

「はいっ!えへへ、嬉しいです。
 おじさま、私ね、イギリスへ行っている間、
 おじさまと一緒に桜が見たくて、仕方なかったんですよ」



 は笑う。右京が今までに見たこともない笑顔で。
 いつの日だったか、桜の木の下で寂しいと泣いていたは、真っ白だった。



「それでは、亀山君。これで失礼」

「ういっす!どうぞ、楽しんできてください。ちゃん、またね」

「はいっ。亀山さん、絶対また、会って下さいね」



 は笑う。右京が見たこともない笑顔で。
 今のあなたは、彩りに溢れている。右京はそんなことを考えながら、鞄を持ち直し、に先んじて一歩踏み出す。



「あっ!
 おじさま、おじさまっ。忘れてました!」

「はい?」



振り返った右京の胸に、柔らかく、暖かな衝撃。首に巻きついてきた腕から、花の匂いがした。



「おじさま、ただいまっ!
 私ずっと、おじさまに会いたかったんです」



 子どもだと、思っていたんですけどねえ。
 後ろで、若い女の子の様に、きゃっと頬に両手を当てている亀山を見ながら、さすがの右京もポーカーフェイスを崩さずに入られなかった。





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この度は素敵な企画に参加させていただき、ありがとうございました!

警視庁のエントランスでこんなことをやっているので、
翌日の特命にはトリオザ捜一が、右京さんをからかいにやって来ると良いのです。
そして右京さんは、イタミンをかるーくあしらってくれると思います。

070907.胡村ゆつる拝