雨は神様の涙なのだ、と小さい頃読んだ本に描いてあった。どういう話だったのかは覚えていないのに、神様の白い頬を青色の涙が伝っている絵と“かみさまがないて、あめがふるのです”というその一文だけがどうしてか鮮明に焼き付いていて、それはあれから十年近くたった今でもこうやって空が灰色の雲に覆われるのを見るたびに甘い痛みとともに思い出される。あのどんよりとした雲の上で神様の睫毛が震えているのだろうかなんて似合わないことをぼんやりと考えながら、後部座席に座るは窓ガラスの外を流れていく街を眺めている。亀山の運転は性格や見た目から想像するよりも丁寧でなめらかだった。
「亀山さんの運転って意外に丁寧なんですね」
「そりゃどう――って、『意外に』、丁寧………それ、褒めてくれてんの?」
バックミラーを通して亀山と目が合ったので当然だという顔でこくりと頷いた。ミラーに映った自分の姿に、ネクタイが曲がっていることに気がついた。
 クーラーがほどよくきいた室内は心地よく、窓の外に広がる街並みも同じように涼しいものであるような錯覚がしたが、カレンダーはもう八月を示しているこの頃は夕暮れ時といえども暑いに決まっている。
「あなたは相変わらず子供らしくありませんね、」助手席に座っている杉下がふっと唇をゆがめる。
「きっとそういうところはおじさまに似たんでしょうね、わたし。そもそももう子供じゃありません」
「そのようなことはせめて高校を卒業してからおっしゃいなさい」
 言葉は厳しいが杉下の口調は優しい。もう、とは柔らかくため息をつきながらネクタイの乱れを直した。彼女が着ている揃いの濃い赤いチェックのネクタイとスカート、そして白いセーターは偏差値の高さと自由すぎるほど自由な校風で有名な私立女子高のものである。亀山がに初めて会ったときも彼女はこの制服を着ていたが、それが何か問題でも、と言わんばかりの彼女の態度はまさに杉下の親戚だと思ったものだ。
「あ、雨降ってきましたね」
 フロントガラスにぽつっと雨粒が当たったのを見て亀山が言った。杉下がしみじみと返す。
「さっきから降りそうな雲行きでしたからねえ」
 ぽつぽつ、だった雨が、ざあざあ、にかわるまでにそう時間はかからなかった。亀山がワイパーのスイッチを入れる。ワイパーがじぃ、じぃ、という音をたてて規則的に行ったり来たりを繰り返す。
「よかった。今日は傘を持ってきてなかったのよ」
「お、それはラッキーだったね、ちゃん」
「だからといって雨が降るたびに呼ばれては困りますよ」
「大丈夫です。おじさまの影響を強く受けてるわたしでも、一般程度の常識はありますから」
「口だけはもう一人前ですね、
「ですから、もう子供ではないと言ったでしょう?」
 ふふ、と口だけで笑うに、杉下は同じような微笑みを返した。傍で二人の会話を聞かされている亀山も二人に合わせて、ははは、と乾いた笑い声をあげた。
 何度聞いても、亀山はこの二人の会話に慣れることが出来る気がしない。確かに口調は穏やかではある、が、内容は皮肉の応酬である。どう考えてもお互い憎み合ってるんじゃないかと思うのだが、実際はこうして非番の日に食事に出かけるほどに仲が良い。今ではこの嫌味合戦も杉下家特有の愛情表現の一種なのだろうと理解出来ているし何度も目の前でこのように会話を繰り広げられているわけではあるが、それでも乾いた笑いを浮かべる以上のことが出来るほどにはなれずにいる。
「あー、あの、右京さんとちゃんって昔から仲良かったんですか?」
耐えきれなくなり、乱暴に話題をかえようと亀山は声を大きくした。
「花さんのこと、ご存知なんですよね。私も彼女と同じなんです。遠縁なのに幼い時からよく面倒を見てもらってたんですよ」
は霧のように降る雨がガラスに当たる様子をかぞえるほうが興味深いとでもいうように窓の外から視線を外さずに答える。何度も尋ねられた質問なのか、台本に書かれた台詞を唱えるような答え方だった。
「小さい頃から子供らしくない子供でしたねえ。よく本を読んでとせがまれたのを覚えています」
 活字でぎっしりの本を読んでと若い杉下にせがむ幼い、という図が脳内で瞬時に描かれ、その図に妙に納得してしまいそうな自分が可笑しくて吹き出しそうになった亀山は、頬をひきつらせてそれを堪えながら、へぇ、と曖昧な相槌を打った。
「……“かみさまがないて、あめがふるのです”」
 杉下が唐突に呟いた。あらかじめ用意されている言葉を読み上げているかのように抑揚がない声だった。
「は?」
「それ、」
亀山とが同時に声をあげた。はじかれたようには杉下を見る。
「覚えてますか、
座席から身を乗り出しての方を見る杉下。目が合った瞬間、は何と返せばいいのかわからなくなる。ええと、と彼女が言葉を探す間に杉下が言葉を続ける。
「雨が降るといつも思いだしますよ、あなたに毎日読まされた本のことを」
「……覚えていらしたんですか」
愚問ですね、と杉下は微笑み、前に向きなおった。
「あれだけ毎日読まされていれば覚えてしまいますよ」
 車が大きな水たまりを踏んで、ばしゃん、とまだ濁っていない水がはねた。
 は眉を顰めるような顔をしてみせた、が不快というよりはむしろ恥ずかしがっているようだとミラー越しに彼女を見た亀山は思った。彼女の頬が普段より赤く見えるせいだろうか。
 それきり表情を変えずは押し黙ってしまい、杉下も微笑んだまま何も言わないでいる。沈黙の中、雨が車体に落ちる音ばかり響いている。だがその場に流れる沈黙は決して居心地を悪くするものではなく、むしろ何故か柔らかい子守唄を聞いているような感覚にさせるものだったので、は雨音に誘われてそっと目を閉じた。
 亀山は二人の話がいまいち掴みきれず本当は何を話しているのか尋ねたくて仕方がなかったが、は目を閉じてしまっているし杉下は微笑みを浮かべたまま降り落ちる雨を眺めたまま口を開かずにいる。凪の海のような静寂は壊すにはあまりにも穏やかだったので、亀山はちらちら杉下のほうを見ることしかできず、問いを口にすることができなかった。ぎゅ、っとわざと音をたててハンドルを握りなおすが杉下もも微動だにしない。亀山が居心地悪く感じているのをわかっていて、しかしそれをどうにもしようとしないところもそっくりだと亀山は一人心の中でだけ悪態をつく。全く、仲のよろしいことだ。――と、そのとき、が急に口を開いたので、心を読まれたのかと思った亀山は肩をビクリと震わせ、背中を冷汗が流れた。
「あの本、どんな話でしたっけ」
 は目を閉じたままで、それはまるで夢の中の登場人物に話しかけているように見えた。杉下も口以外は動かさず、
「七夕の話です」
「……た、たなば、た?」不用意な焦りを誤魔化すために口を挟んだ亀山。えぇ、と杉下が頷き、窓ガラスから視線を戻した。
「彼女の母親は他にもたくさんの絵本を買い与えていたというのには七夕の伝説を基にしたその絵本ばかりを読んでくれと僕にせがんでいたんですよ」
「お気に入りだったんだ、ちゃん」
「…………そう、ですね」過去の海から浮かび上がってきた記憶の欠片たちを組み立てるのに忙しくてほとんど亀山の話を聞いていなかったは適当に相槌を打った。気まぐれのように杉下の口をついた言葉が暗い水底に落ちて忘れ去ってしまったそれらをあっさりと掬ってしまったのだ。目の前に急に現れた過去の欠片たちは匂いまでもが鮮やかで愛おしく、が懐かしんでいるうちに頭の中で勝手に確固とした形に組み立てられていく。もう少し、もう少しで輪郭に手が届く――、
「――催涙雨………そうか、催涙雨の話だったわ………」
「おや、当の本人であるあなたが忘れていたんですか」
「しょうがないじゃないですか、何歳の頃のことだと思ってるんですか」
 の脳内でフラッシュバックのように過去に見た風景が弾けた。今よりずっとずっと小さかった自分の手、その手では抱えきれなかった水色の表紙、濃い青色の水玉。まだ読めなかったから記号のようにとらえていたひらがな。それを読み上げる穏やかで優しい声は小さな身体を丸めて、おじさまの膝の上に座っていたわたしの頭の上から落ちてくるように聞こえてきていた。そう、まるで雨の様に、涙の様にやってくる柔らかい声を必死で追っていた。
「………………でも、そうだわ、どうして忘れていたんだろう、わたし」
「あなたにしては珍しく殊勝な物言いですねぇ」
右京がそう言うと、が微笑んだ。ミラー越しにそれを目にした亀山は危うくハンドルを切り損ねそうになった。そんな風に動揺してしまっても無理はないほどに、が浮かべていた微笑みは、うつくしかったのだ。あたかも、神様のきまぐれで空に現れる虹のごとく。
「だって愛する人とのなれそめを忘れていたんですもの。殊勝になっても当然だと思いませんか、おじさま?」




(2008/09/18)
(参加させていただきありがとうございました!I/棒ラブ!)