「右京さん、どうしたんすか?」
「ああ
「あ、おはようございます……それより、なんかあったんすか?」
「いえ、大したことではありません。僕としたことが、うっかり手を滑らせてしまいましてね」
どうということもない口振りで右京が示したのは、床一面に散らばったティーカップの破片だった。あーあ、と呻いて、脇の用具箱から箒と塵取りを取り出す。自分で片付けると言い張った右京がこちらの手から箒を取り上げる前に、薫はさっさと破片を掃き集めた。肩を竦めて、首だけで振り向く。
「それにしても、右京さんらしくないっすね、何もないとこでカップ落っことすなんて」
「まったくお恥ずかしい。それに
塵取りの中に収まった陶器の残骸を見つめる右京の眼差しを見て、薫はそれがたまきからの贈り物だったことを思い出した。途端に胸が痛んで、がっくりと肩を落とす。
「それじゃ……えーと、これ……こんなになっちゃいましたけど、とりあえず取っときます、か?」
薫がおずおずと申し出ると、右京はしばし本気で考え込んだようだったが。
「いえ、また新しいものを買いましょう」
「え、いやそりゃあそうっすけど、でもこれは」
「構いません。壊れたものは悪いことと一緒に捨ててしまいましょう
そして言うが早いか右京はこちらの手から塵取りを受け取り、隅のゴミ袋にあっさりと放り込んだ。その瞳には、どこか清々しささえ垣間見える。
その日の午後、ふらりと現れた角田課長から一課の噂を聞いて警視庁を飛び出した頃には、その朝方の些細な一件は薫の頭の中からすっかりと消えていた。
「
とある墓石の前で腹を抱え込むようにして倒れているその男の肩を少しだけ浮かせて覗きながら、伊丹がぽつりとそう呟いた。ガイシャの腹部には本人がその柄を握り締めた包丁が刺さっており、地面には僅かな血痕がこぼれている。すでに日の落ちかけた橙の空の下、鑑識の構えるカメラが放つフラッシュがしきりに視界を過ぎる。
「……そうでしょうか」
こちらもまた感じたことをそのまま口に出すと、ちょうど真向かいにしゃがみ込んだ伊丹が険悪な眼差しで顔を上げた。図らずもぎょっとして、心持ち身体を後ろにずらす。
「お前も知ってるだろ、二年前に婚約者を殺された上、その容疑までかけられて一時期頭がいかれちまってたやつだよ。結局犯人は見つかって疑いは晴れたが、ずっと病院通いを続けてたらしい。遺書だってここにある、恋人のあとを追ってこいつはここで死んだんだよ」
確かにそこは、被害者の婚約者のお墓だった。けれど……。
「なにか気になることでもあるのか?」
聞いてきたのは三浦だった。鑑識の邪魔をしないように立ち上がって一歩だけ後ろに下がってから、その『どことなく不自然な点』を言葉にしようとするものの、うまく形になって浮かんでこない。所轄で長年組んでいた相棒は、そんな彼女の考えていることをこちらがびっくりするくらい的確に言い当てることが多く、時にはそれがあまりに秩序立っているものだからこいつは神ではないかと本気で考えたこともあった。様々な実績をあげてここまで来られたのも、ひとえに彼のお陰。それなのに彼は、所轄のままでいいと留まった。
そんな『つうかあ』が、ここでも通用するはずはなく。
「なんだ、もしかして『なんとなく』ってやつか?」
呆れ顔で肩を竦めながら、三浦。伊丹は明らかに軽蔑した様子でちっと舌を鳴らした。
「、お前その『刑事の勘』とやらであんだけの実績をあげてきたとでも?あ、それとも女の勘ってやつか?あ?」
「悪かったですね!どうせあたしは説明が下手ですよ、コミュニケーション能力低いですよ!伝えたいことの一ミリだって伝えられてないですよ、すみませんね!」
「テメ、えらそーに逆ギレしてんじゃねーよ!なんだよ、それじゃー意味ねーだろが!人に伝えらんねー『なんとなく』なんかあったところで無意味だろーが!馬鹿かお前!それでよく一課なんぞに配属されたな?ひょっとして特命行きがお前にはとーってもよく似合ってたかもよー」
「先輩!なにもそこまで言わなくても……」
「うっせー!やっぱり特命を尊敬してるなんぞろくでもねー野郎だ!テメ、邪魔だ、余計な口出しすんな!」
「先輩!」
犬のように吠えまくる伊丹を押さえつけて、芹沢が必死に彼を宥めようとする。なによ。自殺だな、なんて。現場を一目見ただけで、簡単に決めちゃうようなこと?ただそれだけなのに……それが自然な反応なんじゃないの?
あまりにショックで身動きがとれなくなっている彼女の肩を、脇からそっと三浦が叩いた。
「気にすんな。あんなやつ放っといて、なにか気になることがあれば遠慮なく言えよ」
「あ……はい。ありがとうございます……」
彼の気遣いが、じわじわと身に染みた。そうだ、あんな何でもないことですぐ怒り出す人なんて気にしないで、あたしはあたしにできることをやろう。よし、と拳を握ってふと振り向くと、気付かないうちに、見慣れぬ刑事がふたり、ごくごく自然な様子でそこに立っていた。
彼らを見つけた三浦が、はあ、と疲れたため息をつき、顔をしかめる。すぐに伊丹や芹沢も気付いたようで、馬鹿らしい小競り合いをやめて矛先をその二人へと向けた。
「これはこれはまた……お早いお着きで、特命係の
「杉下さん!」
伊丹の厭らしい声を遮って叫んだのは、彼女だった。急に名前を呼ばれて驚いたのか、きょとんと目を開いてその紳士然とした刑事が立ち尽くす。
そのすぐ後ろに立つもうひとりの刑事を見て、はまたはちきれんばかりの声をあげた。
「亀山さん!」
「え?俺?」
辺りを見回して、自分の他に『亀山』が見当たらないと分かったのか
変わらない。二人とも
あちゃー、と疲れ切った声を出して頭を抱える三浦の傍らで、彼女は十数年ぶりのその邂逅に心の底から激しく打ち震えた。
(08.04.26)